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a spell 6
気がつくとベッドの上にいた。
ついさっきまであった頭痛は嘘の様に消えている。
ここは医務室の様だが、見覚えがない所を見ると恐らく試合会場のそれなのだろう。
「ハル先輩…」
横たわる俺を見下ろす心配そうな顔。
「紫音……」
「ハル先輩、大丈夫ですか…?」
「大丈夫。ごめん、迷惑かけて。握手会はどうなった?」
それが一番の気掛かりだった。俺とあの人のせいで握手会中止なんて事になっていたとしたら………。
「それより身体はもう何ともない?」
「うん、大丈夫だよ。それで、握手会は…」
「あいつに何か危害加えられたとかじゃない?」
「違うよ。あの人には何もされてない。前みたいな頭痛のせいで…」
「ストレスかな……」
「ストレス?」
「ほら、前も一回倒れたでしょう?こうなっちゃう切っ掛けはストレスかなって」
「どうかな……」
正直自分でもよく分からない。今回は確かにストレスがあったと言えるけど、前回はただ自分が勤めていた学校に向かおうとしてただけだし……。
被害に遭ったこと全部忘れて、プロチームに入って、試合にも交代要員としてだけど出場できて。
記憶を失って目覚めたあの日から暫くは引きこもりの憂鬱な日々が続いたけど、チームに加入してからは毎日凄く充実していた。
だからか、目覚めた当初は強かった「記憶を取り戻したい」という気持ちも徐々に薄れてきて、今では「もうこのままでもいいか」とまで思っていた。
でも……。都合の悪いことを忘れて、何事もなかったかの様に過ごしてきたけれど、やっぱり俺は普通に見えて普通じゃないのだ。普通の人はあんな風に突然意識を消失したりしないし、身体に何の異常もないのに、あんな風に頭が割れる程の頭痛がいきなり生じたりしない。
「ハル先輩、あんまり気に病まないで。握手会はあの後も続けましたよ。ハル先輩の握手券持ってた人達は俺が対応したから何の問題もありません」
「ごめん紫音、大変だったよな……。本当ごめん」
俺、何やってるんだろう。仕事に俺の世話にと忙しい紫音に更に負担をかけてしまって……。
「全然大丈夫ですよ!気にしないで!悪いのは全部あいつじゃないですか。あいつは厳重注意受けて、握手会出入り禁止になりました。だからもうあいつが現れる事もないですよ」
「そうか……。あの人、怒って暴れたりしなかった?」
「あれからは大人しいもんでしたよ。出入り禁止に関しては許してくれってしつこく粘ってましたけどね。あいつ、ハル先輩に変な事言ってた奴でしょ?個別になってからも、これまでずっと嫌なこと言われ続けてたんじゃないですか?」
紫音に心配をかけたくなくて黙っていたのに、結果的にはこれだ。大事になり、紫音だけでなく沢山の人に迷惑をかけてしまった。
「……いつも声かけてくれてたのに言わなくてごめん。俺、もっと早く報告するべきだったよな……」
自分が我慢すれば済む問題だと思っていた。今日の発言はさすがに報告した方がいいと思ったけれど、立て続けにあんな事になるなんて……。でも、これまでもなんとなく片鱗はあった訳で、もっと早く俺が危機感を持っていればこんな事にならずに済んだのに……。
「俺も危ない奴がいることは知ってたのに、防げなくてごめん。オーナーには色々要望してたんですけど、なかなか分かってくれなくて……。でも、今回の件で流石に配慮してくれる筈ですよ。いや、絶対にさせます」
紫音は少し恐い顔をして、「まずは握手会休ませて……」等ととぶつぶつ呟いている。
「な、なあ。俺はもう大丈夫だし、新人として出来ることは全部やりたいと思ってるから」
だからオーナーに配慮を願ったりしなくても……。
「ハル先輩は充分すぎるくらいやってます。それに、そういう事あのオーナーの前で言ったら色々つけこまれちゃいますよ。俺みたいにバスケ以外にも色々やらされたら困るでしょ?」
「でも、紫音はエースでベテランなのに誰よりも忙しくしてる。その上俺の世話まであって……。俺は紫音にこそバスケだけに集中できる環境が必要だと思う。バスケ以外の紫音の忙しいあれこれを、俺が代われるなら代わってやりたいくらいだよ」
そうは言っても代われる物は少ないのかもしれないが。テレビも雑誌も、紫音を求めているのだろうし、それを俺が代わるって言っても相手が納得しないだろう。でも、もしも誰でもいいって仕事があるならば。俺でもいいって言われる様なバスケ以外の仕事があるなら、俺が……。
「ごめん違う」
「え……」
「俺が嫌なの。俺が、ハル先輩にバスケ以外の事やって欲しくない。ハル先輩をこれ以上色んな奴の目にさらしたくない。俺の腕の中だけに閉じ込めておきたい……」
「な……何言ってんだよ……」
そんな真剣な眼差しで。真面目な声色で。
「本当、俺何言ってるんでしょうね」
紫音は真面目な顔したまま、笑いもせずに言った。それはとても冗談だと笑い飛ばす事のできない雰囲気で―――――。
俺は――――あの事件は、本当に紫音を傷つけたんだ。
「ごめん紫音。本当にごめん……」
俺にはこれしか言えない。覚えてないから。記憶がないから。だから分からない。どうして自分が被害に遭ったのか。どういう経緯で、どういう切っ掛けだったのか。俺にも非があったのか、それともなかったのか。
何一つ分からない。けど、ひとつだけ確かに言えることは、そのせいで俺が紫音や両親や友人達を悲しませ、傷つけ、人によってはトラウマまで植え付けてしまったということだ。
記憶がないからってその責任まで逃れられる訳じゃない。俺のこれまで生きてきた道は途中で途切れてしまったけれど、紫音の道は真っ直ぐでも曲がりくねっていたとしても、それでも一本道なのだから。
俺が紫音にもたらしてしまった道は、きっと坂道だ。勾配が強くて、入り組んでいて、走るのも、歩くのすらも厄介な………。
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