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a spell 7
暗い表情をしている紫音の記憶は、多くない。
試合に負けた時でも、落ち込むというよりは悔しさを滲ませてそれをバネにするタイプだった。
バスケの試合中の真剣な顔や、会話をしている時の穏やかな顔は、場面なんていちいち記憶していられないくらいに俺の記憶の中にありふれていた。けど、暗い顔は、場面を特定できるくらいに少ない。
さっき紫音が見せた顔は、俺の記憶の中のどの紫音とも違ったけれど、強いて一番近いと思ったのは、「彼女と別れた」と話していたあの時の表情だ。あの日は紫音に抱き締められて、俺の電話が鳴るまでちょっと変な空気だったなぁ。あれ……?誰からの電話だったっけか………。
…………ともかく、あの時でさえ、紫音は何を考えているのだろうかと考えさせられたのだが、先程の紫音の表情は、それよりももっと複雑だった。悲しそうなのに悔しさや静かな怒りも含んでいて、それでいてどこか冷ややかにも見える。
紫音は、謝る事しかできない俺をそんな顔でただ見ていた。何も言わなかった。
冷静に思い返せば、紫音の表情は冷たいばかりではなかった筈なのに、無言という圧力はネガティブな面をより色濃く強調する。
紫音はいつも俺に優しい。でもこの時初めて思った。俺は紫音に呪縛を与えてしまったのではないかと。「俺を守らなければならない」という呪縛を…………。
「――――それで、あのファンが激昂しちゃった、とそういう訳かい?」
「はい……」
紫音に「複雑」な表情で見つめられていた時、医務室にスタッフがやって来た。「オーナーが呼んでいる」と。
そして今、オーナーの待つ別室で一通り今日のトラブルについて説明を終えた所だ。
オーナーは胸の前で腕を組んで険しい表情をしている。
「確かにそんな事言われたらびっくりするよな。でももう少し穏便にできなかった?」
「……すみません。相手は冗談で済まそうとしていたので、俺も真面目に取り合わないでやり過ごせばよかったのかもしれません……」
そうだよな……。俺の我慢が足りなかったんだ。俺があの時もう一度握手にさえ応じていれば………。
「冗談冗談。まぁ、こういう商売は時に我慢も必要だけど、そんな変態の手なんか握りたくないよな」
険しい表情を一気に崩したオーナーが、俺の肩をボンボン叩く。
「いやあ、紫音が言ってた事は本当だったんだな。あいつ、春のファンに変なのがいるから、春のブースに警備員をつけろって煩くてな。でもファン心理からしたら、大好きな選手と二人きりの空間の方がテンション上がるだろう?あの中に厳つい警備員が立ってたら感動が薄れるってもんだ。でもそれだけ熱狂的なファンが付くって事は、春が魅力的だって事だぞ。やっぱり俺の目に狂いはなかった」
魅力………と言われても正直全然嬉しくない。あの人はバスケ選手としての俺を正当に評価してくれている訳ではなかったし、あんな嫌がらせをするくらいだから、どちらかと言うとアンチ的な雰囲気だ。
「ブランクの割にバスケの腕も衰えてないし、案の定紫音は絶好調だし、本当、春に加入して貰ってよかったよ」
紫音は確かに絶好調だと思う。でも、俺という気掛かりがなければ、もっともっと伸び伸びとプレーできるのかもしれない……。
「ともかく、今日は大変だったな。これに懲りずにこれからも頑張ってくれるか?」
「はい、もちろんです」
当然、こんな事ぐらいで握手会やめたいなんて言えないし、言うつもりもない。
「これからも期待してるよ」
そう言うオーナーに頭を下げて部屋を出た。
紫音を待たせている。今日の試合もフル出場した紫音は、早く家に帰って身体を休ませたいだろう。本当に俺ってお荷物だよな……。
ちょっと鬱々とした気分ににりながら急いで医務室に向かう途中だった。ロビーのベンチに、紫音の姿を見つけた。
「お疲れさま」
紫音は疲れなんて一切見せない、いつもの優しい顔をして俺を待ってくれていた。それを見てほっとする反面、そんな紫音のお荷物でいたくないと更に強く思った。
人の心の傷というものは、一体どうすれば薄れていくものなのだろう。
「ハル先輩、大丈夫?オーナーに何か嫌な事言われた?」
俺の冴えない顔を見て、紫音が眉をひそめた。心配そうな顔つきだ。
「ううん、何も。ただ報告してきただけ」
俺が慌てて首を振ると、紫音は肩を撫でおろした。
「紫音、ありがとうな。オーナーに聞いた。警備員つける様に要請してくれてたとか……」
「うんまぁ……。でも実現できなかったら何の意味もないですよ。俺は結局、またハル先輩をちゃんと守れなかった……」
紫音が悔しそうに言う。
「そんな大袈裟だよ。俺は何ともないし………」
何ともないと言う割に倒れてしまったのだが、それはあの人のせいではなく俺の中の問題だから。
それに、紫音に俺を守る義務はない。だから、もしも万が一今回もっと大変な事になったとしても、それで紫音が責任を感じる必要は全くないのだ。
本当に言いたい事はこれだった。でも、そんな勝手な事とても言えない。行方不明になって散々心配をかけておいて「心配しなくていい」なんて、そんな事……。でも、このままじゃ俺は紫音の負担でしかない………。
「ハル先輩、俺の傍から離れないでね」
「…………」
「傍にいれない時は、俺との約束絶対守って」
「……うん守る。守るから…」
一人ではどこにも行かない。家でじっとしてる。知らない人には応対しない。それが例え宅配や郵便であっても。
まるで小学生以下だ。でも、そんな事で紫音が安心できるなら。俺から離れられるなら。少しの時間だとしても俺の事も事件の事も忘れていられるのなら。そんなのお安い御用だ。だから―――。
「紫音、これからは仕事以外でも外に出ていいからな」
「え……」
「紫音は仕事で外に出る以外ずっと俺といてくれてるだろう?俺、ちゃんと紫音の言う通りに留守番していられるし、ジムに行かなくたってできるトレーニングは沢山あるから。だから、紫音は紫音のプライベートをもっと充実させて欲しい」
紫音の負担なだけの存在でいたくない。役に立ちたいなんておこがましい事は言わないから、ただ紫音を解放してあげたい。俺が思っているのはただそれだけだった。
「………俺のプライベートって?」
なぜか紫音の声色は心なしか低かった。
「友達と遊びに行ったり、彼女とデートしたり……他にも色々やりたい事あるだろう?」
「彼女……?」
「歓迎会の時話してたじゃないか」
「あぁ……そうでしたっけ。あの時は結構酔っ払ってて。でも、確かに話したかもしれませんね、『彼女』の事」
な、なんか紫音の言葉にトゲがある様な……。彼女の事、俺にあんまり話したくないのかな……。
歓迎会の時に突然帰ろうって言ったり、態度が変だったのは、彼女の事を聞かれるのが嫌だったからかな……?その割には結構嬉しそうに話してた気もするけど……。
「と、ともかくそういう、プライベートが紫音にもあるだろ?俺はちゃんと大人しく待っていられるから、心配しないで遊びに行ったりして…」
「ハル先輩は、俺といるの嫌?」
「いや、そういうんじゃなくて…」
「じゃあこれまで通りでいいです。これまで通り、俺は俺の『プライベート』全部でハル先輩と一緒にいます」
「え、でも…」
「俺がそうしたいんです。俺が、自分の意思で俺の時間をハル先輩に全部使ってるんです。俺が自分のしたいことをしてるだけ。だから、もうそういう事言わないでください」
「…………ごめん」
紫音は、それしか言えない俺を色んな感情の入り交じった複雑な表情で眺めていた。
怒り。悲しみ。落胆。そして、失望――――。
そうだ。この表情は、失望だ。失望なんだ…………。
悪気はなかった。ただ紫音に楽になって欲しかった。俺は、本当はいつだって紫音に傍にいて欲しい。紫音が傍にいると安心するから。でも、紫音の重しでいたくなかった。紫音に与えてしまった呪縛を解いてあげたかった。ただ、それだけだったのに………。
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