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人間は強欲だ。 大切な人が傍にいさえすればいい。本気でそう思えていた期間は驚くくらい短くて、あとは自分に言い聞かせるばかりなのだから。 なぜ忘れてしまったんだ。あんなに大切な事を。大切な時間を。大切な気持ちを。 俺は、俺の気持ちはひとつも変わっていないのに、なんて事ない顔して、俺の事どうでもいいって顔して、俺の「彼女」の話をして。 こうして憤れるのも、その人が傍にいてくれるから。もしもまだ行方不明だったのなら、こんな感情にさえなれず、光の届かない暗い暗い海の底に沈んで行くしかなかったのだから。 腐って当たり散らしたりしない様に、いつもそれを肝に命じる様にしている。 けど、わざわざ言い聞かせている時点で俺はこの状況に―――ハル先輩が傍にいるというあの頃から見れば格段に幸せなこの状況に慣れてしまっていた。 傍にいてくれるだけでありがたい。 そんな気持ちを、時々忘れてしまいそうになる。 「やあ紫音。今回もいい絵が撮れたよ」 昨年も来た男ばかりの怪しいパーティー。ゲロ甘カクテルと例の変態に注意しつつなるべく目立たない様にしていたつもりだったのだが、結構すぐに見つかってしまった。例の変態こと主催者の新井田社長だ。 いい絵が…というのはこの間撮影した新しいCMの事だろう。紆余曲折あって今年も契約更新となった為、伴い新バージョンのCMを撮ったのだ。 本当は、テレビに出るのもCMの出演も、もう沢山だった。アウルムのCMだって、話があったとしても今年は断るつもりだった。そんな事してる暇があったらハル先輩の傍にいたいから。 でも………。 「今日は紫音だけか?」 「………オーナーも来てますよ」 「そうじゃなくて、さ」 ニヤリと笑う新井田社長の言わんとしている事は分かっている。 「椎名先輩なら来てません」 「残念だな。今日こそ会えると思っていたのに」 来させるものか。怪しい趣味の新井田社長には絶対に会わせないし、そもそもこういう業界人は危険な奴等が多い。この社長もそうだし秋良もそうだし………。 「……ちょっと!」 この社長、振りきれたのか知らないが、最近では公衆の面前だとしても堂々と俺の腹や胸や脚に触れてくる。その度ににべもなく拒絶しているのだが、全然懲りない。 「相変わらずいい身体だ……」 俺に手を払い除けられた社長は、にまにまと気持ちの悪い笑みを浮かべている。 「何でダメなんだ?」 「は?」 「いや、触る事じゃない。椎名君だよ。CMに出すの何で紫音が嫌がるんだ?」 「嫌に決まってるじゃないですか」 「自分の人気が脅かされると思ってるのか?」 「そんな事どーでもいいです」 「じゃあ何で?」 「……危ない人間が多いので」 「それはまさか俺の事を言ってるのか?でも生憎、俺は椎名君みたいな可愛いタイプは好みじゃないから手は出さないよ」 何言ってんだ。節操なしの変態親父の癖に。 「信用してません」 「はは……辛辣だなぁ」 「椎名先輩のオファーは諦めてください。無理に椎名先輩に近づこうとしたら、俺このCM降りますから」 ハル先輩と2人でCMに出ろと言ってきたオーナーだって、この脅し文句で黙らせたのだ。ハル先輩にバスケ以外の事させようとしたら、俺がテレビも雑誌の取材もアウルムのCMも全部断ると。 そんな大口を叩いたせいで、この通りCMは継続となり、以前は断っていた様な仕事も引き受けざるを得なくなってしまったのだが、それでもハル先輩をこういう業界と関わらせない為だと思えばやれる。やるしかないと思っている。 本当はあの危ない握手会だってやめさせたいのだが、それだけはオーナーが頑として譲らなかった。 そもそもあれはハル先輩が加入してから始めたものだった。ハル先輩の実力を侮っていたオーナーは、ハル先輩の価値をその程度だと見積もっていたのかもしれない。つまり、ただのアイドル的な客寄せとしてしか使えないと。 でも、そうじゃなかった。ハル先輩は間違いなくチームに貢献している。勿論試合の中でだ。それは俺だけでなくチームの誰もが感じていて、オーナーもその誤算を大層喜んでいた。 ハル先輩はちゃんと自分の役割をこなしているのだ。握手会なんかに毎回出されて客寄せする必要もないくらい、きちっと仕事してる。それなのに…………。 「そんな寂しいこと言わないでくれよ。紫音あってのアウルムだろう?」 オーナーが急に猫撫で声になった。 一瞬にしてオーナーへの苛立ちまで思い出してしまった俺は、随分と怖い顔をしているのかもしれない。 「そう思うなら椎名先輩の事は忘れてください」 「随分必死じゃないか。もしかして君たちの仲は噂通りなのか?」 「…………」 これには黙るしかなかった。噂は本当で付き合ってるんだって、今は胸を張って言える状況じゃない。でも、否定だってしたくない。 「おいおい本当か。なんだ紫音、お前男もいけるんじゃないか」 社長は俺の沈黙を肯定と受け取った様だ。何が嬉しいのか、満面の笑みだ。 「許せないな。俺の事はあんなに拒んでおいて、裏では椎名君とやることやってたなんて…」 「変な想像はやめてください。今は俺の片想いですから」 「なんだ振られたのか?」 「別に……」 いや、同じ様なもんなのかな……。 「ほお。紫音程の男を振るとは。ますます椎名君に会いたくなってきた」 「ですから椎名先輩には…」 「いいよ、紫音降りて」 「………は?」 「次のCMは椎名君に頼むから」 なん、だと……。 「紫音よりも落とすの簡単そうだし。色んな意味でね…」 社長がニヤリと嫌な笑みを浮かべた。 ふざけんなこの好色親父……! 「おお怖い!そんなに睨むなよ、冗談だ。俺が紫音を手放す訳ないだろう?」 ………くそキモい。 最後の言葉は耳元で囁かれた。しかもどさくさに紛れて尻を触られて、本当にキモい。 鳥肌が立つほどキモいのに、俺はそれ以上にほっとして脱力してしまった。ハル先輩を守れたのだから。 俺、ハル先輩を守る為なら身を挺しても構わない。少し尻を揉まれるくらいどうってことない。肩を組まれたってどうってこと……。 「上行こうか」 上……?社長は俺に鍵を見せつけた。でっかいキーホルダーのついた、ホテルの鍵特有のそれを。 ……なんだこのベタ展開。てか、こいつ毎回このパーティーで誰かお持ち帰りしてるんじゃないだろうな。いや、絶対そうだ。そうじゃなきゃ普通部屋なんかとらない。なんと準備のいい事……。 エレベーターに乗せられてもどうってことない…訳もなく、俺は社長の腕を乱暴に払いのけた。社長はニヤニヤしながら追い縋ってくる。 「これから一晩過ごしてくれたら、椎名君には近づかないと約束するよ」 「そんなの御免です。それに、そんな事しなくても近づけないんじゃないですか?」 俺がCMに出るようになってから、売り上げがかなり伸びたと聞いている。俺がCM降りたら困るのはお前とお前の会社だろう? そう視線で訴えると、社長はやれやれと言いたげに両手を広げた。 「………全く、自信家だなぁ紫音は。普通、選手はスポンサーには頭上がらないもんだぞ」 「椎名先輩には近づかないって約束してください」 「……ったく、分かったよ、椎名君には近づかない。今は、ね」 「いまは?」 「いつまでも俺が我慢していられると思うな。あんまり焦らされたら、好みじゃないのをつまみ食いしてしまうかもしれないからね」 「………そんな事したら俺何するか分かりませんけど」 脅しじゃない。本気で、何をしでかすか自分でも分からない。ハル先輩を脅かす存在だと分かれば社長だのスポンサーだのは最早関係なくただの敵だ。 「怖いなあ。一応肝に命じておくけど、紫音もそうすることだ」 ふざけやがって……。 変態社長は脈なしと踏んだ俺に背を向けるとすぐに他の男漁りを再開した。向田を初め、ハル先輩の周りに出現する危険な奴等と違って執着心が強くない分まだマシだが、それでも危険人物には違いない。 ……それにしても、男に迫られるのってやっぱキツイな…………。

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