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夫が、妻と浮気相手が自宅にいる所に鉢合わせる。
実際は全然そうじゃない。俺はハル先輩の夫でもないし、ハル先輩は俺の妻じゃない。でも、俺の心情としてはそれに近かった。
2日ぶりの愛する人の待つ自宅に帰った俺の目の前に広がった光景。それは、リビングのソファで寄り添うハル先輩と事件の担当刑事の小野寺さんの姿だった。俺は予想だにしていなかったその光景に、頭の中は真っ白。ドアの前で立ち尽くした。
「あ、青木君っ、これは違うんだ!」
俺の顔つきを見て危機感を覚えたのか、小野寺さんが慌てた様に言った。
「離れてください」
「あ、いやでも、離れたら……」
「いいから離れろ!」
怒鳴りながら大股で二人に近づき、小野寺さんを押し退ける。すると………。
「え!?」
ハル先輩の身体は、ソファの背凭れに背中を這わせながら横に倒れた。
「ハル先輩!」
さっきまで下向き加減でよく見えなかったハル先輩の表情は、寝顔だった。目を閉じて、スヤスヤというよりももっと静かに眠っている。俺が喚いても揺さぶっても目を覚まさない。これはもしかして……!
「まさかてめえ、変な薬でも……!」
「ち、違いますよ!僕は何もしていません!」
「じゃあ何でハル先輩目覚めないんだよ!」
「僕にも分かりません!突然頭が痛いと言ってこんな風に……」
頭が痛いっていつもの………。
「寝てると思ってたんです!気絶してるなんて全然思わなくて、どうしようかと思っていたらちょうど青木君が帰ってきて……」
小野寺さんはかなりあたふたしていて、隠し事をしている様には見えない。でもだからこそ『どうしようかと思った』って言うのは本心だろうし、それはどういう意味だと問い質したくなる。
だって普通ただの男が肩にもたれ掛かって来たら気持ち悪くてすぐ押し退けるもんじゃないのか。小野寺さんの『どうしようか』には、気色悪いというよりも、照れや緊張を強く感じたのだが、これは恐らく気のせいではない。
でも、深く追求しても意味はないだろう。答えは解っている。ハル先輩相手なのだ。ハル先輩にこんなことされたら、8割方の男はこうなる。小野寺さんもその8割の内の一人だった。俺が警戒しなければならない大半の男の内の一人だった。得られた情報はそれだけで、必要な情報もそれだけだから。
「きゅ、救急車呼びますか!?」
あわてふためく小野寺さんを適当に落ち着かせると、ハル先輩を横抱きに抱えて寝室のベッドに横たえ、眠り姫の様に微動だにしないハル先輩に布団をかけた。
倒れる原因は、記憶だ。
1回目倒れた時は分からなかったけれど、前回は暴力や恫喝に、何かを連想しそうになったのだろうと思った。カウンセラーの樫野さんにも聞いてみたら、トラウマとなる記憶を思い出しそうになった時、自己防衛の為に脳をシャットダウンさせているのだろうと説明された。だから、今回も恐らく……いや、ほぼ確実にそれだ。
「今度はどんな嫌な記憶が甦りそうになったんですか……?」
ベッドの傍らに膝をついてハル先輩の額を撫でる。
微動だにしない。瞼も動かない。ただただ静かな呼吸音だけが微かに聞こえるのみ。
鍛えても鍛えても大きくならない、こんなに華奢な身体に、受け止めきれない程の沢山の傷を抱えさせられて……。
こういう姿を見ると、やっぱり記憶を取り戻せなんて言えないと思わされる。俺がどんなに俺の事を思い出して欲しくても、ハル先輩にとって昔の記憶は、忘れていた方がいい事の方がきっと多いんだ……。
ハル先輩の中に眠る嫌な記憶を凌ぐほど、トラウマを消し去ってしまえるほど、俺がこの9年間で幸せを与えられていたなら。ハル先輩の心も、頭の中も俺の事で満たせていたのなら、もしかしたらハル先輩は俺の事を忘れたりしなかったんじゃないだろうか。
たまにそんな事を考える。
俺が、ハル先輩があいつから昔受けた傷を相殺できるぐらいの存在になっていれば、忘れたのは今回の事件の事だけだったのかもしれないのに。10年近くも時間があったのに、俺は一体何をやってたんだろう――――。
誰かにとられるのが怖くて、ハル先輩を守るって建前でともかく束縛してた。無防備なハル先輩を護るって理由は半分くらいで、もう半分は俺の独占欲だった。それに、会うたび身体ばかり求めてた気がする。俺、自分の欲求ばかり押し付けていたのかな。
思い出すのはそんな事ばかり。ハル先輩、俺といる時どんな顔してたっけな……。
笑ってた。それに、幸せそうにしているとも思ってた。でも同じくらい怒ってたかもしれない。呆れてたかもしれない。
少なくとも俺との思い出は、あいつのもたらした深い深い傷跡を埋めるには足らなかった。俺はあいつに勝てなかった。
ハル先輩……………。
もう一度頭を撫でる。
こんなに好きなのにな。
どうして俺はもっと尽くせなかったのかな。
どうして俺は大事な時に助けてやれなかったんだろうな。
撫で続けていたら、ハル先輩の浅かった呼吸がゆったりとした寝息に変わった気がした。
「ふ……」
何とも言えない鬱々とした気持ちになりかけていたのに、その姿は俺の口元を緩ませた。
可愛いな。心からそう思う。
最近よく見る柔らかな笑顔や、遠慮がちな表情、戸惑いの顔。
それらも可愛いし、ハル先輩らしさは何も変わっていなくて、今みたいに勝手に癒されたり、ドキドキしたり、はたまた興奮を覚えてしまったりする。
でも、ハル先輩はそんな俺の気持ちには応えてはくれない。恋人であった俺に向けていた表情とは明らかに異なっているし、態度だって全然違う。
当然だ。ハル先輩にとって俺はただの元後輩で現チームメイトなんだから。
一緒にいたいのに。傍にいないと不安で不安で仕方ないのに、傍にいると辛くなる。俺の中のハル先輩が、過去になってしまいそうで、怖くなる。俺に他人行儀なハル先輩がスタンダードになりそうで、見ていたくないと思う時だってあった。
俺のそんな態度に、ハル先輩が戸惑っていることは知っている。
こうして寝顔を見ているだけなら穏やかでいられるけれど、俺に全く興味のない素振りをされるのはかなり堪える。傷つくのだ。
態度、表情、話し方、距離感。それらから、ハル先輩の俺への感情はジャブの様にじわじわと伝わってくる。でも、たまに強烈なストレート食らうと、俺だって自分の心を守りたくなる。いけないと思いつつも、ハル先輩をシャットアウトしてしまう。
俺の場合、無意識でなく意識してやっているから、直ぐに何て態度を取ってしまったんだと反省するのだが。
そんな時には必ず、ハル先輩が傍にいるだけでどれだけ幸せなのかということを言い聞かせる。
そして、あの時。最後に会った日。プロポーズした時の泣き笑いの顔。それを思い浮かべる。
幸せそうで、幸せだったあの時の気持ち。
いつか取り戻せる。
確証はない。方法も知らない。でも、そう思っていないと、俺の心まで壊れてしまいそうだから。
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