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Sign 6

……………水……音………? いつの間にかぐっすり眠っていた脳が徐々に覚醒した。 ジャージャー水が流れる音がする。 ハル先輩、トイレに起きたのかな……? 何にせよちゃんと目覚めてよかった。本当は一刻も早くハル先輩の顔を見たかったけど、トイレの前で待たれたら嫌だろうから、もう少しここで待っていよう。ここにいれば必ず顔を合わせられるのだから。 ハル先輩を俺の寝室のベッドに寝かせたから、隣に横たわる訳にも、勝手にハル先輩のベッドに入る訳にもいかなくて俺はリビングのソファで横になっていたのだ。 そのソファに座ってハル先輩を待つ。 それにしても遅いな。 俺が目を覚ましてからもう数分経っているが、水音は一向に鳴りやまない。 ……あれ?これ、トイレの音じゃない。それに気づくのが遅かったのは、寝起きでちょっと頭が働かなかったせいだ。トイレじゃなくて洗面所か……? 当たりをつけたそこの扉を開くと、案の定洗面台の前にハル先輩がいた。手を洗っている様だ。 「ハル先輩、目が覚めたんだね」 脅かさない様に、普段より小さめの声で言った。そのせいで俺の声が聞こえなかったのか、ハル先輩は振り向かなかった。返事もない。まだ、手を洗っている。 「ハル先輩?」 もう一度、今度は気づいて貰えるくらいのボリュームで声をかけたけど、相変わらず返事はない。 ずっと手を洗っている。おかしい。さっきからずっとだとしたら、もう何分洗ってるんだ……。 「ハル先輩!」 肩に手を置いて、顔を覗き込んだ。けど、ハル先輩はこっちに視線を向けてくれなかった。ただただ一心不乱に手を………。 「ハル先輩、洗いすぎですよ」 そう言って蛇口を締めると、漸く俺の存在に気づいたみたいにハル先輩がゆっくりと振り返った。 「ハル先輩、大丈夫……?」 声をかけてみても返事はない。ハル先輩は、こっちを見ている様で見ていなかった。どうにか視線を合わそうとハル先輩の目線に合わせて屈んでみても、ハル先輩は全然俺を見ようとしない。 「まだ………まだ、手に…………」 ハル先輩は独り言の様にそう言うと、再び俺に背を向けて蛇口を捻った。 目付きや目の色。ハル先輩が纏う雰囲気も、普段と明らかに違っている。 「ハル先輩、もう大丈夫だから!」 「……赤い………が………」 赤い………? 「取れない………取れないよ………」 ハル先輩は魘される様に繰り返した。いつものハル先輩じゃない。正気じゃない。 「ハル先輩!」 俺の言うことなんて全く聞く耳を持たないけど、このままにしておく訳にもいかず、半ば強引に洗面台の前から引き離してリビングまで連れてきた。 ソファに座ったハル先輩は、膝の上の両手に視線を落として、気のせいでなく震えている。 ハル先輩の肩にブランケットをかけてあげて、ハル先輩の足元に跪いた。 「ハル先輩」 確かめる様に名前を呼んで、両手を握りしめた。お湯でなく水で洗っていたせいで、ハル先輩の手は酷く冷たくなっている。 「しおん……?」 ハル先輩が初めてちゃんと俺を見た。 でも、その言葉はどこか拙くて、正気に戻ったのかそうでないのか判断がつかない。 「ハル先輩、大丈夫?お茶でも……」 ん……? 立ち上がり、キッチンに向かおうとした俺のシャツが何かに引っ掛かった。いや引っ張られた。 「しおん、行かないで」 上目遣い。舌ったらず。俺のシャツをギュッと握る可愛らしい手。何だこの可愛い生き物は。 「どうしたの?」 光の速度でハル先輩の隣に座った俺の口調も自然と子供に聞くみたくなる。 「行かないで……。こわい。おねがい……」 ハル先輩の身体は震えている。寒いんじゃない。怖いんだ。ハル先輩は何かに酷く怯えているんだ。 それに気づいたら、あれこれ考える暇もなく身体が動いた。 「大丈夫。俺はどこにも行かない。ずっとハル先輩の傍にいるから……」 封印した記憶の中に、一体どれだけの傷を抱えているのか………。 こんなにピュアで、繊細で、人一倍怖いものに弱いハル先輩が。10年前にあんなに酷い目に遭って、それでもこれまで壊れる事なく自分を保ってきた強いハル先輩が、その一部を壊してしまう程の恐怖は、屈辱は、痛みは、衝撃は、一体どれ程だったのだろう。それを思うと胸を締め付けられる。 ハル先輩の身体をこうして抱き締めるのは久しぶりだった。細くて薄い身体。なんとも言えない素晴らしくいい匂いがするのは相変わらず。前と何も変わらない。変わらない筈なのに、ハル先輩の気持ちは前と全然違っている。でも俺はやっぱり変わらず大好きで、触れ合っているとより一層気持ちが高まってきて、物凄く緊張した。安心させようとしてる癖して、俺の心臓の音の方が絶対に煩い。せめて呼吸音だけでも静めよう。あ、でも息止めたら苦しい……。 そんな風にあたふたしているのは俺だけで、ハル先輩は直ぐにくたりと力を抜いて俺に凭れかかってきた。その様は無防備で一切の雑念すらない子供みたいだった。やがて、スースーと寝息が聞こえてくる。 ハル先輩を俺にもたれ掛かったままの状態でそっと縦抱きにして、再び俺の寝室のベッドに寝かせた。ハル先輩の眠るベッドに腰掛けて、可愛い寝顔を暫く眺めてから、変な気を起こす前に退散しなければと立ち上がろうとしたら…………。 「ん……?」 何かにシャツが引っ掛かっている。 あれこれデジャヴ? 視線を落とすと、予想通りの光景が。 まだ掴んでたんだ……。 可愛いくていじらしくて微笑ましくて。 きゅっと握る小さな拳が可愛い過ぎて、それを無理に離そうなんて全然全く思えない。暫くベッドに腰掛けていたけれど、ハル先輩が手を離す気配はない。もう一度立ち上がって離れようとすると、やっぱりハル先輩の手がついてくる。 一晩中ずっと座ってるのもきついしな。これは仕方ないよな? そんな風に言い訳しながら、俺はおそるおそるハル先輩の隣に横たわる事にした。さっき抱き締めた時と同じくらいドキドキしながら………。 「はぅっ!」 俺がベッドに入った直後。寝返りを打ったハル先輩が、俺の身体にぴったり密着した。いや、分かりやすく言うと、抱きついた。 「やば……」 思わず声が漏れる。俺の胸に埋まる美しい銀髪。甘えるみたいにすがり付く身体。体温。安心しきった寝息。全部やばい。 心臓がさっきの倍の早さで激しく鼓動する。緊張しすぎて手のひらとか顔とか変な所から変な汗が噴き出す。こんなシチュエーション、棚からぼた餅所でなく、据え膳所でなく、待ちに待っていたというか望んでいた筈なのに、穢れを全て忘れたハル先輩自身が、なんかあまりに神聖すぎて、俺はハル先輩の背中に腕を回せなかった。 だってこれは、うたた寝しているハル先輩にいたずらと成り行きと勢いで軽いキスを仕掛けようとするのとは全然違う。こんな状態で触ったら箍が外れてしまう。 ハル先輩が忘れてても、俺はハル先輩の感触を知っているから。抱き心地もそうだし、どんな反応をして、どんな声を出すのかも、何もかも分かっているから。………こうしてちょっと想像しただけでもやばいのだから、何か行動してしまったら、どんどんエスカレートしてしまう事は明白で―――――――。 * ひゅっと息をのむ微かな声と急速に離れていく心地よい温もり。 ただ目を瞑っていただけなんじゃないかと思うくらいの浅い眠りだったから、俺はすぐに瞼を開けた。 ハル先輩が、目を見開いている。何がなんだか分からないという表情で固まっている。 やっぱり、昨夜の事は何ひとつ覚えていないんだな。 それを、この表情で確信した。 退院したあの日と同じだ。あの時、常軌を逸した様に『行かない』と何度も叫んでいた事を、ハル先輩は全く覚えていない様だった。昨晩も、明らかにいつものハル先輩と違っていたから、きっと目覚めたら全て忘れてしまっているんだろうと思った。 でも、『行かないで』と言われたり、甘える様に抱きつかれたり。もしかして、俺の事少しは思い出したのでは……?そんな淡い期待が全くなかった訳ではないから、多少落ち込んだ。 「こ……ここ、紫音の部屋……?俺、なんで……?」 いつも落ち着いていて動じないハル先輩が、目を白黒させながら珍しくテンパっている。 「ハル先輩寝惚けてたんですよ」 こうなった時どう答えよう。 一晩中考えていたから、すんなり台詞が言えた。寝惚けて、間違って俺のベッドに潜り込んできた。そういうシナリオを匂わす台詞が。 「ご、ごめん!でも、本当覚えてなくて……。ともかく、ごめんな!」 俺のシナリオが伝わったらしいハル先輩は、羞恥心からだろう、顔を真っ赤にさせて何度も謝ると、バタバタとベッドを抜け出し、慌てて部屋を出て行った。 ハル先輩がいた所。布団が少し膨らんでいてぽっかりと空間が出来ていた。触るとまだ温かい。 戻って来て欲しい。俺を好きなハル先輩に。俺の隣で眠ることが当たり前のハル先輩に。

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