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darkness 1

ハル先輩の夢遊病の様な悪夢は、ここ最近少し酷くなってきた。 夜中にずっと手を洗っていたり、「怖い」と言って俺にすがり付いて離れなくなったりは前からあったが、最近では一度落ち着かせて眠りについてからも、再び飛び起きてしまう様になったのだ。 何の悪夢を見ているのか、初めの頃はよく分からなかったけど、最近なんとなく分かってきた。なぜ頻りに手を洗っていたのかも、理解した。悪夢の合間合間に、会話が少し成立する様になったからだ。 でも、朝目覚めれば全てをリセットしたみたいに夜中の記憶を無くしている。まるで二重人格みたいに。 記憶を無くしていてよかったと俺は思う。あんな悪夢を覚えていては、ハル先輩の日常生活は間違いなくままならなくなってしまうから。 悪夢は大まかに分けて2種類あって、ひとつは恐らくあいつに凌辱される夢で、初めの頃は殆どこの夢は見ていなかったと思うが、残念ながら最近増えてきてしまっている。 そしてもう1つは、ハル先輩があいつを殺してしまったという夢だ。 この後者の夢は意外だった。残念ながら凌辱を受けたのは事実だと思うが、あいつを殺したなんて、そんなの絶対に事実ではないからだ。 ハル先輩に人を殺せる筈がない。それが例え憎いあいつであったとしても、どんな酷い事をされたとしたって、ハル先輩は人を傷つける事のできる人間ではない。もしも万に一つの間違いがあって殺してしまったとしても、刃物で刺して血塗れになる様なスプラッターなやり方は絶対に選ばない。 ハル先輩は元々人一倍血とかホラーとかグロいものが苦手だった。お祭りにやってくる陳腐な移動お化け屋敷ですら本気で拒絶する程に、そういう物を怖がっていた。それに、根っから優しくて温厚だから、例え冗談であったとしても人を貶めたり傷つけたりしない人だ。まして暴力的な事なんて絶対にしない。 だから、俺はハル先輩が何度「俺がやった」って言おうとも信じない。信じたくなくて頑なに否定している訳では決してない。ハル先輩の身の潔白は、俺から見ると疑う余地がないのだ。ハル先輩に人を殺められる訳がない。それは俺が一番よく知っている。 でも、なぜ事実である筈がなのに、そんな悪夢ばかり見るのだろうか………。 * 「ッ!!!!」 隣でハル先輩が飛び起きた。 そして、両手を見つめて震えている。ぼろぼろと涙を流しながら。 「ハル先輩、大丈夫。夢だよ」 今日はどっちの悪夢だろうかと思いながら声をかける。でもまだ触れはしない。もしも凌辱の夢であった場合、不用意に触る事でパニックを起こすことがあるからだ。 「違う………夢じゃない……夢じゃない……だって、血が………」 「大丈夫。大丈夫だから」 落ち着かせる為に静かに言って、夢の判別が出来たからそっと抱き締めた。 「紫音、血が……」 「血なんてどこにもついてないよ。ハル先輩の手は綺麗だから」 「でも俺が……俺のせいで……っ」 「ハル先輩は何もしてないよ。ハル先輩は何も悪くない。ただの悪い夢です。だから大丈夫。大丈夫だよ……」 「………ゆ………め……………」 「そう。夢だよ。………今度は楽しい夢を見よう。一緒にバスケする夢なんてどう?ハル先輩先にオフェンスでいいですよ…………」 静かに、催眠術をかけるみたいに語りかけている内に、ひっくひっくとしゃくり上げていた声が段々聞こえなくなる。そしてやがてだらんと身体の力が抜けたから、そっとベッドに横たえた。 月明かりに照らされたハル先輩の寝顔は穏やかだ。 今夜はもうこれ以上ハル先輩を苦しめないで欲しい。このまま悪夢を見ずに朝目覚めて欲しい。こんなに辛いなら、もう何も思い出さなくていいから。全部忘れてていいから、笑ってて欲しい。ハル先輩の苦しむ姿を見るのは、涙を見るのはとても辛い。 * 「!!!」 また隣で飛び起きた気配がしたけど、もう朝だ。多分、大丈夫。 そう踏んで寝たフリを決め込んだ俺の予想通り、ハル先輩は息を殺してそーっとベッドから抜け出した。そして同じ様にそーっと部屋を出ていった。 この調子なら、昨夜の事、何も覚えていない筈だ。そして、何も思い出していない筈だ。 ちょっと前までは俺の事を思い出していない事にがっかりする瞬間だったが、今ではがっかりする一方でほっとするのだ。これで少なくとも今夜寝るまでは、ハル先輩は苦しまなくて済むのだから。 「お、おはよう」 暫しベッドの上で横たわったままゆっくりしてからリビングに顔を出すと、今朝の朝食当番のハル先輩が台所からぎこちない挨拶をしてきた。 「おはようございます」 愛しい人が、エプロンはつけていないものの、俺の為に朝食を作ってくれているとか、男にとっては憧れのシチュエーション以外の何物でもない。可愛いくてニヤニヤが止まらない。 「何作ってるんですか?」 「た、ただの味噌汁と、卵焼き」 後ろから抱きつく事は出来なくても、それに近い距離感でハル先輩の手元を覗き込みながら言うと、ハル先輩はあからさまに俺から顔を背けてまたぎこちなく答えた。多分ぎこちないのは俺のベッドに寝ていたせいなのだろう。 顔を洗って着替えてリビングに戻ると、テーブルの上にホカホカ湯気を上げるご飯と味噌汁、卵焼きが用意されていた。 「美味しそう」 「だといいんだけど」 少し照れ臭そうなハル先輩と一緒にいただきますをして豆腐の味噌汁を啜る。旨い。卵焼きも、甘くて優しい俺好みの味で、最高に旨い。何よりもハル先輩が作ったという事実だけで同じものでも何倍も旨い。 ハル先輩は器用だ。 これまでやっていなかったから、一から作り方を教えなければ殆ど何も作れなかったけど、一度作り方が分かるとみるみる内に上達していった。初めは巻けなかった卵焼きも、今では綺麗に巻ける様になったし、味噌汁の豆腐の大きさも揃っている。レパートリーはまだ少ないけれど、味付けの勘もいいし、元々器用で頭がいいから、レシピさえ渡せば多分何でも作れると思う。 「ハル先輩、全部すごく美味しいよ」 「そうかな」 「うんとっても。ハル先輩も、もっと食べなよ」 「うん」 そう答えつつも、元々食の細いハル先輩は朝は特に食欲が湧かないらしく、俺の半分も食べていない。こんなに美味しいのに。

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