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confession 6
スイートルームは、思っていた通り雰囲気抜群だった。高そうなソファやテーブルに大きなテレビ、洒落たバーカウンターまである。その中でも一際目を引くのは入り口を入って正面にある、ワンダーランドの夜景が一望できる大きな窓だ。最上階にあるここからは、何にも遮るものはなくランドマークの背の高い城が見えた。それが夜の闇の中ライトアップされていて、実にロマンチックだ。でも、そんな抜群のロケーションが今は忌まわしい。
「景色やばいですね!流石はスイート!」
バーからここまでの間俺達は二人とも無言だった。別に仲違いした訳でもないのになんとも気まずい雰囲気で、それを払拭するために俺はわざと心にない感嘆を口にした。
「社長の言った事は気にしないでくださいね」
うわー、このテーブル何人座れるんだろう。
すぐにそう続けてついでみたいに。そうやって一番伝えたい事を言ったのは、それが大したことないって思わせたいが為のパフォーマンスだ。
浅はかだった。庶民な俺は、ウン十万の値打ちのあるものをただの紙屑に変えてしまう勇気がなかったし、まだ『お友達』のハル先輩をデートに誘う口実には最適だと思ってしまった。そんな俺の気持ちがまんまと読まれて利用された挙げ句こんな事に……。
あいつにとってハル先輩と接触することはウン十万以上の価値があったのだ。俺だってこんな事になると分かっていたら、例えウン十万を捨ててでも、いや、有り金全部捨ててでもハル先輩を隠したままでいたかったのに……。
「気にするよ」
え……。
「ごめん俺、気になる。気にするなって言われても……」
はしゃぐフリをしていた俺を他所にずっと黙っていたハル先輩が顔を上げた。強い視線だった。それに射ぬかれた俺の道化の仮面は、一瞬で剥がされた。
「気になる」っていうのは、聞き返さなくても新井田の言った事で間違いないだろう。新井田は殆ど俺の気持ちをバラしたと言っても過言ではない。それでも誤魔化そうと思ったのは、ハル先輩の「女扱いされたくない」って明確な気持ちを知ってしまったからで、真実を話せばハル先輩はきっと傷つくと思ったから。俺が認めなきゃ、否定してやれば、あんなのは新井田のただの戯れ言で終わらせられる。
でも、ハル先輩は敢えて追求した。傷付きたくなかったら、知りたくなかったら、見て見ぬフリをして欲しいのに。俺の口から間違いだと聞いて安心したいのか。それとも……もしかしたらハル先輩も俺の事を……。
違うかもしれないのに、期待したら跳ねる様に心臓がバクバクしてきた。まさかって気持ちと期待がごちゃ混ぜになって訳が分からない。
でも、知りたい。ずっと知りたかった。ハル先輩の気持ち。
「俺………」
恐る恐る口にして、視線を上げる。ハル先輩はじっと俺を見ている。翡翠色の目を不安そうに揺らしながらも、決して目を逸らさずに。
なんて綺麗なんだろう。
誤魔化せない。ハル先輩のこんな綺麗な目を見て嘘なんてつけない。誤魔化しきれる筈がなかったのだ。こんなに強い想いは。
「好きです」
ああ言ってしまった。言わないつもりだったのに。少なくとも今日は。ハル先輩の視線は俺を惑わせて正常な判断力を奪う。
「俺は、ハル先輩の事が誰よりも何よりも好きです」
ハル先輩は、驚いた顔をして言葉を失っている。俺には、ハル先輩の表情をそれ以上冷静に観察する度胸はなくて、けど、もうここまできたら後戻りはできない。それに、ずっと隠してきた気持ちを打ち明けるのは、溜め込んでいた胸のモヤモヤを吐き出すようで爽快感すらあった。罪人が自分の犯した罪を告白する時、もしかしたらこんな気分なのかもしれないな、なんて事を頭の隅っこの方で考える。
「ハル先輩は嫌かもしれない。けど、俺が身を挺してまで守りたいのは貴方だけなんです」
「……………」
「好きです」
「……………」
「愛しています」
相変わらず何も言わないハル先輩に、俺は決死の思いでそれを口にした。
「紫音……おれ………っ」
やっと口を開いてくれたハル先輩の声が震えて聞こえたのは、俺の聞き間違いなんかじゃなかった、俯いたままなかなか顔を上げないハル先輩を覗き込むと、その顔色は真っ青だった。
………!!!!
「ハル先輩ごめん!」
俺の自信とフラグが、一気にへし折られた瞬間だった。ハル先輩はやっぱり嫌なんだ。男に女扱いされて告白されるのが、蒼くなる程に……。
でも、そのショックにうちひしがれたり絶望する前に俺にはやるべき事があって、それはハル先輩にこんな顔をさせた責任を取ることだ。俺の言葉を嘘偽りないし、今更冗談でも片付けられないから謝る事しかできないけど、俺の罪は重い。
「ごめん!」
「ちが……う。お、れ………」
俯いて蒼い顔で震えていたハル先輩は、ついに力なくその場に踞ってしまった。
「ハ、ハル先輩!」
もしかして、俺の告白とか関係なく、このタイミングで体調を崩したとか……?いやでもそんなまさか……。
俺は狼狽える事しかできない。触れられたくないかもしれないから、身体を支えてやる事もできず、でもこんな状態のハル先輩が心配で心配で、俺もハル先輩の目の前にしゃがんで、これ以上態勢が崩れて倒れたりしてしまわない様、ハル先輩に触れない距離で背中と身体の横側に手を添えた。
「どこか痛みますか?それとも気持ち悪い?」
踞ったままのハル先輩が微かに首を振る。
「病院……それとも救急車の方が……」
ちょっと尋常じゃない様子が本気で心配で、俺はポケットのスマホを取り出した。タクシーを呼ぶか、119か。ああ違う、ここはホテルだから、まずはフロントに連絡した方が……。
「!!」
驚いた。おろおろしていた俺の腕を、ハル先輩が掴んだからだ。痛いくらいに強い力で。
「し、おん……」
俺の腕を掴む力とは反比例してハル先輩の声は力がなく苦しそうで、俺は保身も葛藤も一瞬で全部捨ててハル先輩の身体を抱き留めた。
「ハル先輩!」
ハル先輩の身体はぐったりと俺の腕に凭れた。俺の腕を掴んでいたハル先輩の手の力も緩んで、ダランと重力に従って落ちた。一瞬、気を失ったかと思ったけど、ハル先輩の視線はこちらに向いていた。時折苦しそうに目を瞑って、まるで痛みに耐えているみたいに眉根を寄せながら。
「ごめ……、おれ、もう………」
絞り出す様に口を開いたハル先輩を見て、俺はようやくピンときた。これは、記憶が……!
「しお、……たすけ、て………」
「!!助けるよ!何だってする!俺、ハル先輩の為ならなんだって!!」
胸が痛い。ハル先輩が助けを求めているのに。何だってしたいのに、俺はハル先輩の過去に行って苦しんでいるハル先輩を助けてあげることはできない。こんなに助けたいのに何もできない自分がもどかしくて悔しくて苦しい。
もう半ば倒れかかっていたハル先輩の頭を膝の上に乗せて、俺はハル先輩の手を握って顔を覗き込んだ。
ハル先輩の瞳は段々と虚ろになっていった。心と身体を苦しめる記憶の重圧に、脳がシャットダウンしかかっているのだと分かった。
「ハル先輩、俺がついてる。もう大丈夫。大丈夫だよ」
瞼が落ちそうになってはそれに抗う様にまた開けて、を繰り返しているハル先輩に、静かに語りかける。悪夢に魘された時と同じように、眠りにつけば、意識を失えば、きっとハル先輩の苦しみは一時的にも癒される。だから、もう眠っていいんだよ。そう何度も呟く。
でも、いつもは安心させてあげれば眠るハル先輩が、今日は違った。また重そうな瞼を開けて、焦点の合わない視線をさまよわせている。その瞳が濡れている様に見えるのは、俺の気のせいではない。
「ハル先輩、俺はここにいるよ!」
ハル先輩の視界で目立つ様に顔を近づける。ハル先輩は、ようやく俺を認識したみたいで、俺の目を見つめる位置で視線を固定した。
「し、お……」
握っていない方のハル先輩の手が、スローモーションの様にゆっくりと伸びてきて、指先が確かめる様に俺の頬に触れた。
「ハル先輩……」
「おれ、もう……、まえのこ、と………………」
わすれたくない。
最後の言葉は、もう殆ど声になっていなかった。
けど、ハル先輩の口は確かにそう動いた。最後の力を振り絞る様にそれを口にしたハル先輩は、俺の頬に触れていた手を力なく下ろした。瞼が閉じきると同時に涙が一筋こめかみを伝う。
胸が張り裂けそうだ。
今、ここにいたのは、俺が抱き留めていたのは、俺の記憶を持ったハル先輩だったのだ。俺を愛してくれていた、ハル先輩だった。
あんなに辛そうな顔をして、自分を磨り減らしながら苦しくても何度も瞼を開いて俺を探して。
愛しくて切なくて儚い………。
「ハル先輩……」
ぽつ、とハル先輩の頬が濡れた。それを見て、一足遅れて気がついた。自分が泣いている事に。
酷い喪失感だ。ハル先輩はここにいるのに、失ったものは大き過ぎた。
ハル先輩が記憶を失ってから数ヵ月。色んな事に折り合いをつけたり、諦めたり。そうしてようやく、今の状況で前進しようとしていた。ハル先輩は記憶をなくしても別人の様にはならなくて、俺の大好きな人のまま変わっていなくて、やっぱり俺は生涯ハル先輩以外を愛することなんてできなくて。思い出は、また作ればいいんだから。それぐらいに思える様に、ようやくなってきていた。
けど、本当は――――。
ハル先輩と刻んだ記憶は、こんなにも愛しかった。楽しいものも悲しいものも、全部、愛しかったのだ………。
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