まだ開いてないかもしれないという心配は杞憂だった。 「おはようございます」 　目的の場所の入り口には、早朝だと言うのに眠い顔ひとつせずにかっちりとした制服を身に纏ったスタッフが立っていた。尋ねられて部屋番号を告げると、恭しく頭を下げられた。そして、ラウンジへと繋がるガラス扉が開かれる。 　目の前に広がったのは相変わらずの眺望だったけど、生憎の雨だ。この天気のせいか、それとも朝早すぎるせいか。先客はまばらだった。 　入ってすぐのドリンクやサンドイッチなんかが並んでいるカウンターを素通りして空いている席を探す。悪夢のせいで眠りの質が悪かったのか、少しフラつくのだ。 　席は選び放題だったけど、なんとなく昨日初めに紫音と座ってたのと同じソファに腰を下ろした。窓の向こうの灰色の空を眺めながら背凭れに身を預けて一息つく。気が緩むとまた涙が出てくるのではと危惧したけど、それも今のところ杞憂だ。場所を変えるという選択は正しかったのだろう。確かに気分転換になっている。 「春？」 　ふいに声を掛けられた。 「あ……」 　振り向くと、知ってる顔が。……昨晩会ったばかりだと言うのに、礼儀知らずにも咄嗟に名前が出てこない。まだ頭が半分眠っているのか、名前どころかこの社長さんとの昨夜のやり取りも所々ぼんやりとしている。 「やっぱり春だ！おはよう！早いね。いやあ、今日も相変わらずの美しさだ。それに、なんか目元が妙に色っぽいねぇ。はは、朝から目の保養になるよ。それにしても奇遇だよねえ！会えて嬉しいよ！」 　社長さんは満面の笑みだ。相変わらずグイグイ来る感じに戸惑いながらも、失礼のない様に微笑んで挨拶を返す。 「ひとり？」 　新井田さんが（そうだ、新井田さんだ）忙しなく周囲をきょろきょろ見回している。 「はい」 「紫音は？まだ寝てるの？」 　頷くと、新井田さんが子供みたいに無邪気に笑った。 「じゃあ、ここいい？」 　答える前に、向かいの席にコーヒーカップが置かれる。 「あれ？春は何も飲まないの？」 　早くもソファに掛けた新井田さんが首を傾げた。 「いま、取ってこようかと……」 　嘘だ。本当は忘れてた。 「いいよいいよ、座ってて。俺が取ってきてあげるよ」 　立ち上がりかけたところで新井田さんに制された。遠慮しようとしたが、立て続けに 「昨日は紅茶を飲んでいたよね？同じでいい？」 　そう言われて、思わず「はい」と答えてしまう。 　待ってて。笑顔でそう言い置いて行った新井田さんの背中を見ながらある意味感心していた。観察力も人をリードする力もコミュニケーション力も、そして強引な所も段違いだ。一流経営者って、こういう所が普通の人と違うんだろうな……。 「昨夜の、ミルクとレモンが入ってなかったのは分かったんだけど、砂糖は分からなかったから」 　新井田さんはティーカップに満たされた紅茶の他に、角砂糖のポットも持ってきてくれた。 「すみません。ありがとうございます」 　次、新井田さんが飲み物おかわりする時は俺が取りに行くんだ。そう心に決めてカップを引き寄せた。少しでも頭をスッキリさせようと、砂糖を二つ入れる。その途端、 「好きなの？甘いもの」 　すかさずといった調子で新井田さんが聞いてくる。 「いえ。普段は入れないんですけど、朝なので」 「もしかしてお腹空いてた？軽食もあったけど、持ってくる？」 「大丈夫です」 　新井田さんが早くも腰を浮かせかけたので、慌てて言う。 「後で、自分で取ってきますから」 「そう？遠慮しないでね。……って言ってもここは全部無料だから、別に俺の奢りでも何でもないんだけどね」 　新井田さんがカハハと豪快に笑う。朝からパワフルな人だ。そう言えば……。 「新井田さんも、お一人なんですか？」 　昨夜は連れの男の人が一緒だった。 「ああ、あれも紫音と一緒だよ。まだ寝てる。ちょっと昨夜激しくし過ぎたんでね」 　後半は小声で、尚且つウィンクまでついてきた。 「紫音と春と同じところに泊まってるんだって思うと興奮しちゃって……」 　意味あり気な微笑みを寄越されたけど、興奮……？何で？ 「あんな三流モデルとじゃなくてさ、どうせなら俺は二人と3Pしたかったよ。今度どう？ぶっ飛んじゃうくらい気持ちよくするよ。保証する。紫音が嫌だって言うかな。けど春が説得すれば頷いてくれそうな気もするけど。あ、で、春たちは昨日どうだったのか聞かせてよ。スイートの夜はさぞ燃えたろ？紫音ハッスルしすぎてぐっすり寝てるんじゃない？」 　新井田さんは終始笑みを浮かべて凄く楽しそうに喋ってるけど……どうしよう。何を言われてるのかよく分からない……。 「誤魔化すなって。なあ、何回戦した？」 「何回戦……？バスケの話ですか……？」 　話の流れからしてそんな筈はないと思いながらもそれしか浮かばなかった。案の定、新井田さんが苦笑している。 「バスケの話なんて今してないでしょ。紫音に何回襲われたかを聞いてんの。今は別れてるのか知らないけど、スイートのお泊まり了承しながら夜は断るって鬼畜ムーヴは流石にしてないよな？」 　襲われた……。スイート……。お泊まり……。夜……。断る…………。 　ワードを組み合わせて見えてきた話の輪郭がいかがわしい。けどそれが正しいとしたら、新井田さん俺たちのこと誤解してる……？