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nightmare 5
「さあ、分かったなら行こう。これ以上俺を焦らさないでくれ……」
灰皿に煙草を押し付けた新井田さんが、テーブル越しに身を乗り出してきた。そして、
「早く春のエッチな顔を見せて」
耳元で囁かれる。生々しい言葉にゾッとして固まってしまった俺に、だらしなく目尻を下げた新井田さんが笑いかけてくる。俺にとっては全然、笑い事じゃないのに────。
「好きにすればいい」
「言われなくてもそうするさ」
俺の覚悟を勘違いしたらしい新井田さんの上機嫌な顔が視界に入った。
拳を握り、ぎりっと歯を食い縛る。頭が沸騰しそうだ。
「俺の事は何とでも……辞めさせたいのならオーナーに意見してクビにでもすればいい。けどサンフィールズはあなたが思っている程無能じゃない。チームのみんなそれぞれに力があって、魅力がある。例えあなたが手を引いたって、簡単に沈没したりしない」
なんとか冷静さを保ってはいるけど、食い縛った歯が削れそうな程、目の前がチカチカする程に無性に腹が立っていた。
───こういう風に、権力を振りかざされて、血へどが出るほど悔しい思いを味わわされた経験がある。今の俺じゃない。記憶を持った「春」が、だ。記憶は甦らない。けど、腹の底から沸き上がってくるこの煮えたぎる様な怒りと嫌悪感。これは絶対に知ってる。この感情を、この悔しさを俺は知っている。
バスケを辞めさられるのは、嫌だ。漸く掴んだ夢をみすみす手放す事なんて当然したくない。けど、だからって権力に屈して自分を安く売るなんて事は絶対にしない。この身に、「春」に、もう二度と同じ悔しさと屈辱を与える訳にはいかない。
チームは、大丈夫だろう。俺が辞める事でアウルムに損害は与えられなくても、サンフィールズ、そして紫音という広告塔を失う事は、アウルムにとっても痛手の筈だ。だから、俺の事はともかくチームから手を退くと言うのはハッタリに違いない。だから───。
「かっはっは……!」
俺の啖呵に対して、一体どんな辛辣な言葉が返ってくるのだろうと身構えていた。けど、返ってきたのはさっきから何度か聞いた呑気な大笑いだった。
「思ってたより強情なんだ」
呆気に取られてる俺を知ってか知らずか、新井田さんはお手上げのポーズで言う。
「俺の負けだよ。今日のところは諦めよう」
「それってどういう……」
「悪かった。冗談って事で済ませてくれよ」
「冗談……?俺をからかってたんですか?」
「いいや。春を口説いてたのは本気さ。けど、最後のは出来心だ」
「……つまり、全部ただの脅しに過ぎなかったって事ですか?」
「もちろん。俺もバスケを愛する者の端くれだ。春のプレイには期待してるし、君たちのチームを応援する気持ちにだって変わりはない。さっきのは、ただ春を早くモノにしたくて出た口からでまかせだ。いや、しまった。春がここまで堅いとはなぁ。そうと知ってれば違う方法で攻めたんだけど。やり方を間違えたよ」
はっはっは。新井田さんがまた大きな声で呑気に笑った。
「酷いです……」
一緒に笑う気にはなれない。この数分間で俺の感情は主に負の方向へ大いに揺さぶられた。恨み言のひとつくらい言わせて欲しい。
「ごめん、悪かった。許してくれ」
笑うのを止めて居住まいを正した新井田さんがそう言って頭を下げた。テーブルに額が付きそうになるくらい丁寧に。
「……もういいです。頭、上げてください」
少しの間無言でその様を見ていたけど、いつまで経ってもそのままだからそう言うしかなかった。途端、余韻もなくすぐに新井田さんの顔がこっちを向いた。
「にしてももっとチョロいと思ってたんだけどなぁ」
新井田さんはまた笑顔だ。切り替え早すぎ。例え演技だとしても、謝罪直後くらいはもう少し神妙な顔をしてもいいだろうに。
「春は見掛けによらず意思が強いね」
「普通です。普通、断ると思います」
「そんな事ない。そのケのない子でも、大体2番目の方法で落ちる。つまり、取り引きでね。3番目のやり方までいって落ちなかったのは、片手で数えられる程度だよ。そうそう、紫音もその内のひとりだ。春と紫音、全然違うように見えて似てるとこもあるんだね」
「紫音にもこういう事……」
「はは、まあな。会う度に口説いてるけど、まだ一度もいい返事は貰えてない。紫音もなかなか強情でね。あ、そうだ。さっきも言ったけど3Pはどう?紫音だって春がいれば文句ないと思うんだよ。春だってそうなんじゃない?最悪、俺は二人のプレイを見てるだけでもいいからさ。ね、どう3P?考えてみてよ」
「すみません、なんの事だか……」
「誤魔化すなよ」
「?」
「え、本当に分かんない?3Pって今まで一度も聞いたことないの?本当?……へぇ、春って純粋なんだ。その辺は見た目通りだけど、それにしても天然記念物レベルだね。あとは見た目通りもう少し気も弱かったら今頃俺たちベッドの上だったのになぁ。本当に残念だよ。俺さ、春は簡単に落とせると思ってたもんだから滅茶苦茶その気になっちゃってたわけ。諦めるって言ったけど、まだ春を抱きたい衝動は治まってくれてないわけよ。なあ、やっぱだめ?ちょっと試してみない?もし貞操観念強いんなら最後まではしないから、抜き合うだけでもいいから……」
新井田さんがごねている。さんぴーはなんだかよく分からないけど、ともかくあまり品の良くない類いの用語である事だけは確かだろう。それにしてもさっき頭を下げてくれたのは一体何だったんだろう。謝ったのは脅迫した事についてのみで、こういう下心丸出しな発言とかについては改めるつもりはないのだろうか……。俺は今の所この人と今後会う予定もないし、今さえ我慢すればいいからいいけど、紫音はそうじゃない───。
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