214 / 236
nightmare 8
1階に到着すると同時にフロントへ飛び付いた。
「紫音は……さっき人を捜して外に飛び出して行った人はまだ戻って来ませんか?」
「椎名様でいらっしゃいますか……?」
「はい。お騒がせして申し訳ありません……」
「何事もなくてよかったです。こちらの方こそ申し訳ございません。私どもが説得しきれずに……。お連れ様はまだお戻りになられていません。すぐに警備のものを向かわせたのですが……。携帯電話で連絡がついたりはしていませんか?」
その手があった。慌ててポケットを探るも、目的のものがない。
「だめだめ。さっきから何度も鳴らしてるけど全然繋がらない」
ルームキーも財布も携帯も何も持たずに部屋を出てしまったんだったと気づいた時、新井田さんがそう言った。きっと紫音もスマホを持たずに部屋を出てしまったのだろう。
「そうですか。警備の者も含め従業員には、お連れ様をお見かけしたらホテルに戻っていただく様お伝えする様に手配させていただきますね」
「すみません、お願いします」
フロントのホテルマンに頭を下げてから、エントランスの大きな扉を潜った。車寄せの屋根の一番先で、紫音の帰りを待とうと思ったのだ。雨脚は弱まる気配もなく、煉瓦造りの地面に当たっては跳ね返って俺の足を濡らす。
「紫音、いよいよ頭がおかしくなったか?」
ロビーでフロントの人と話し込んでいた新井田さんが外に出てきた。
「フロントで、春が拐われたとか連れ去られたって騒いでたらしいぞ。警察を呼べとか何とか。電話も相変わらず通じないし、困ったもんだな……」
胸がズキンと痛む。紫音……。
「紫音がおかしい訳じゃない。仕方ないんです。俺が、悪いんです……」
足が濡れるだけでもこんなに冷たいのに……。一刻も早く紫音を連れ戻してやりたい。居場所が分かれば、今すぐにそこまで駆けつけるのに……。
「春」
後ろから腕を引かれる。
無意識に、屋根のないところまで前進していたらしい。さっきまで濡れてなかった髪の毛が少し濡れている。
「心配なのは分かるけど、捜しに行ったってすれ違いになるだけだ。ここで待とう」
新井田さんの言う通りだ。紫音は何も遭難しそうな所へ行った訳じゃない。ここでこうして待つのが最善だ。頭では分かってるけど……じっと待つのがこんなに苦しいなんて……。
*
遠くに人影が見えたのは、それからどれくらい経ってからだったのだろう。長かった様にも短かった様にも感じる。
「春……!」
紫音に違いない。思ったと同時に駆け出していた。背中に新井田さんの静止の声が被せられたけれど、振り返る余裕なんかない。
「紫音!」
大きな声で呼ぶと、ずぶ濡れで項垂れて歩いていた紫音が顔を上げた。
溌剌としている印象の強い紫音が、見たことのない顔をしていた。悲壮感。憔悴。何と表現すればいいのか分からないくらい疲れきっていて、辛そうで、苦しそうで、悲しそうな、そんな顔だった。
俺は紫音にこんなに心配をかけてしまったんだ……。
紫音の様子は俺が思っていた以上に深刻で、俺はその場で立ちすくんでしまった。罪悪感ばかりがのし掛かり、謝罪以外の言葉が何も出てこない───。
───徐に紫音が走り出した。バシャバシャと水溜まりを派手に撥ね飛ばしながら、全速力で。
あんなに疲れきった顔をしていたのに、どこにそんな体力が残っていたんだろう。
思っている内に、紫音はすぐ目の前だ。
「ハル先輩……」
今にも泣き出しそうな声で名前を呼ばれて、土下座して謝りたいくらいに申し訳なくなった。けどそれは叶わず───。
「よかった……。ハル先輩がいる。ちゃんといる。どこにも連れ去られてなかった。よかった……。また俺のせいかと思った。俺がこんなとこに連れてきたから……。生きた心地がしなかった。ああ、けどハル先輩はここにいる……。よかった。ハル先輩が無事でよかった。よかった…………」
俺の背中に回った腕は痛いくらいに力強かったけど、その声は震えていた。泣いている。そう思った。俺は紫音が本当に泣いているのを初めて見たかもしれない。少なくとも、"俺"の記憶にはない。
「お熱いのはいいんだけど、中でやったら?」
雨音が突然パラパラと高い音に変わったと思ったら、新井田さんが俺たちの頭上に傘をさしてくれていた。
*
新井田さんの登場で我に返った紫音は、自分の方が何倍もずぶ濡れなのに俺が雨に濡れてる事を大袈裟な程散々気にした後、新井田さんに突っ掛かって行った。「何でここにいるんだ」に始まり、最後には新井田さんが俺を拐ったんじゃないかとまで発展したので、俺も一緒に必死に否定した。新井田さんは終始飄々としていたけど、紫音はかなり頭に血が昇っていて、暴言だけに済まず手が出るんじゃないかとひやひやさせられっぱなしだった。
「ホテルには俺が話しとくから」
吼える紫音を尻目にそう言って俺たちが真っ直ぐ部屋に戻れる様気遣ってくれた新井田さんには、後日謝罪とお礼の機会を持たなくてはならないだろう。
びしょ濡れの紫音に先にシャワーを使って欲しかったけど、紫音は頑として譲らなかった。
根負けしてできるだけ急いでシャワーを浴びて出ると、タオルを首から下げた紫音がすぐそこのベッドに腰掛けていた。
「先使ってごめん」
早くシャワー使えよってジェスチャーで伝えると、紫音は首を振ってぎこちなくはにかんだ。
「もう乾きました。服も着替えたし、大丈夫です」
「風邪引くぞ。浴槽も大きかったから、お湯溜めてゆっくり温まってくるといいよ」
自分の気の利かなさに言ってから気付いた。お湯、張っておいてやればよかった。そう思い浴室へ戻ろうと背中を向けた瞬間だった。
「いいって!!」
突然紫音が大きな声を出した。びっくりして、身体が固まる。
「ご、ごめんなさい……!」
酷く慌ててる様がいつも通りの紫音でほっとした。
もしかしたら、シャワーを浴びれない程体調が悪いのかもしれない。そう思ってみると、ベッドに腰掛ける紫音はいつになく背中が丸まっていて、どこか気だるげにも見える。
本当は顔を覗き込んで顔色を確かめたいくらいだったけど、俺にそんな事されるのはきっと嫌だろうから、紫音の前を通り過ぎるとベッドの向こう端に座った。この寝室にベッドはひとつしかないけど、いつも二人で寝てるセミダブルの倍は横幅がありそうなベッドだから、それでも適度な距離は取れる。
ともだちにシェアしよう!