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nightmare 9
「本当にごめんなさい。俺…………」
紫音が口ごもった。紫音が言いにくそうにしている事が何なのかは分からない。けど恐らくは、俺が紫音に話さなきゃならないことと深く関わりのあることなんだろうとは思う。
「…………俺、またハル先輩がいなくなったらって思うと怖くて……。今は視界からハル先輩がいなくなるだけで不安になるんです。だからシャワーなんかとても……」
紫音が顔を伏せながら告げた事は、やっぱり俺が危惧していた通りの内容だった。
「…………なあ紫音、」
「新井田さんとラウンジにいたんですよね」
意を決したように紫音が顔を上げた。ずっと伏せられてた目が、鋭く俺を射抜いている。
「うん、さっき言った通りだよ」
さっき──外で、新井田さんと俺とで、そこに至るまでの経緯は一通り説明した。それをもう一度聞くという事は、どこか納得のいかない点があるのだろうか。
「気分転換したくてラウンジに行ったら、たまたま新井田さんと出会して、一緒にお茶してたんですよね」
「うんそう。……心配かけて、本当に悪かった」
「本当にたまたまだったんですか?」
「え……?」
「隠さないで正直に言ってください。新井田さんに指示されて呼び出されたんじゃないですか?」
どうして紫音がそう思ったのかが分からなくて、ちょっと呆気に取られた俺とは対照的に紫音の表情は至って真剣だ。
「俺はもう本当に、自分が自分で許せない。あいつはずっとハル先輩に会いたがってたんです。それを分かってたのに、こんな簡単にあんな奴の罠に掛かるなんて……。少しも油断しちゃだめだって前の時も死ぬほど後悔して、今度こそ絶対にこの手でハル先輩守り抜くって決めたのに…………」
紫音が握り締めた拳で自分の足を殴った。苦しんでる事が、痛いほど伝わってくる。「前の時」って言うのは、俺が拐われた時の事を言っているのだろうか。きっとそうだろう。さっきも、あの雨の中で抱き締められた時も同じような後悔の念を口にしていた。「また俺のせい」って。
「紫音。紫音が思ってる様な事はなかった。俺は新井田さんに言われてラウンジに行ったんじゃないし、待ち合わせしてた訳でもない。本当に偶然だったんだ」
「本当ですか?」
「誓って」
漸く信じてくれたのか、紫音は少しほっとした表情を見せた。けどすぐにその横顔に陰が差した。
「……じゃあどうしてハル先輩は一人で部屋を出たりしたんですか?俺の傍を離れないって、約束してくれてたのに。それなのにどうして……」
「ごめん。今朝はちょっと気が動転してて周りが見えてなかったんだ。紫音の気持ちを考えられなかったのは、本当に申し訳なかった」
「気が動転って、何があったんですか?」
「何かあった訳じゃない。ただ、夢を見て……」
「夢?けどハル先輩、怖い夢ならいつも俺の所に来てくれるのに」
そうだ。俺は毎晩のように夜中に目覚めては紫音の寝室に侵入してたぐらいだった。その時の悪夢の内容も紫音の部屋に行くまでの経緯も全く覚えていないのだけど。今は最初から紫音と一緒に寝てるから、自分がまだ毎夜悪夢を見てるのかさえ定かではない。けど、極稀に朝方に悪夢を見ることもあって、そういう時は夢の内容までは覚えてなくても、確かに紫音の傍にいたいとか、紫音の温もりを感じたいと思うのだ。けど今回は…………。
「いつもと違う感じの夢だったから……」
「違う……」
たまに覚えているような、後味の悪い嫌な感じでも恐怖を覚える感じでもなくて、今朝のはともかく悲しい夢だった。そして、いつもと明確に違ったのは、紫音の傍にいると悲しさが増したことだ。
「もしかしてハル先輩、昨夜の事覚えてるんですか……?」
「……覚えてないよ」
「そうですか……」
紫音はどこかほっとしたような面持ちだ。
「けど、何を言われたかはちゃんと分かってる」
「え?」
「俺、自分に都合の悪いことは全部忘れちゃうから……」
自嘲気味に言うと、紫音は「都合の悪いこと……」と俺の言葉を繰り返して呟くと肩を落とした。
「紫音が気に病むことないよ。新井田さんの言う事鵜呑みにして、俺が勝手に期待しただけなんだから。それよりも紫音、もう俺たち、一緒にいない方がお互いの為だと思う」
「え、ハル先輩、ちょっと待って。なんで?……っていうか情報量多すぎる。期待ってどういう、」
「それはもういいだろ。俺が言いたいのは、俺といる事が紫音に悪い影響しか与えないってこと。紫音、自分でも分かってるだろ?俺のせいで彼女と別れたり、俺をかばって沢山仕事引き受けたり、俺の存在は紫音の負担でしかないって。それでも俺を守らなきゃって思うのは……俺が言うのもなんだけど少し病的だと思う。紫音をそんな風にさせた事は本当に申し訳ないと思うし、俺にできることがあれば何だってしたい。けど、これまでみたいに一緒にいたって悪くなる一方だと思う。俺が事件に巻き込まれたときに何があったかは分からない。けど、俺は……春は、紫音のせいだなんて絶対に思わないし、何があったとしても気にしないで欲しい。俺は紫音を縛り続けることが苦しいんだ。紫音が大切だからこそ、辛いんだ」
正直言って、紫音と決別することに不安がない訳ではない。けど、そんな事よりも紫音を救いたい。「春」の呪縛から解き放ってやりたい。昨夜俺が勘違いしたみたいに紫音が俺を好きという訳でもなければ、俺に縛られることは紫音の足枷にしかならないから。
「ハル先輩、俺は病気でハル先輩に縛られてるわけじゃないよ」
黙って俺の話を聞いていた紫音がぽつりと言った。
「気に障る様な言い方してごめん。他に上手い言葉が見つからなかった」
「別に俺は怒ってるんじゃないよ。けどハル先輩、本当に昨夜俺が何を言ったか分かってる?」
「分かってるよ」
「……もう一度言ってもいいですか?」
「だ、だめだよ!」
「言わせてください。ハル先輩にとっては都合の悪いことなのかもしれないけど、俺が何でハル先輩を守りたいのか、その理由を理解して貰いたいし……それに俺、他にもハル先輩に伝えたいことがあるんです」
「理由は分かってるよ。俺が拐われた事に責任感じてるんだろ」
「違います」
「違わないよ!紫音の言動とか行動見てたらそうとしか、」
「好きです」
「……え」
「好きです、ハル先輩。俺は昨夜、そう言ったんです」
「え……」
「同性の友達から好かれるのがトラウマなの知ってるのに、ごめんなさい。けど、今までの関係のままじゃ傍にいることを許されないのなら、俺は何度でも言います。ハル先輩が好きだから、俺に守らせてくださいって」
「好きって……紫音が、俺を……?」
「そうです」
紫音がはっきりと頷いた。───とても信じられない…………。
混乱して頭の中真っ白だ。そのせいで気付くのに少し時間がかかった。向けられる冷静な視線にだ。まるで観察でもするかの様に、紫音がじっと俺を見つめていた。
「……俺をからかったのか?」
「からかう?まさかそんな」
「だったら、」
「体調、問題ないみたいでよかった。昨日は告白した途端苦しそうに倒れ込んじゃったから……」
俺の顔を覗き込むと、紫音は寂しそうに微笑した。
嘘じゃない。そう思った。さっきの視線は、俺の体を心配をしていた為だったようだ。じゃあ、本当に紫音は俺を……?いや、けどおかしい。だったら俺が記憶をなくす筈ない。だってそれは俺にとって嫌なことでも都合の悪いことでもない。寧ろ俺も、そして恐らくは大人の春も望んでいたことなんだから。
「けどね……」
少し間をおいて、紫音が続けた。
「昨夜はただ気を失ったんじゃなくて、いつもと違うことがあったんです」
「いつもと、違うこと……?」
「はい。これが、俺が伝えたかったもうひとつの事です。昨日、ハル先輩の記憶が一時的に戻りました」
「え……」
「1分にも満たない時間だったし凄く不安定な感じだったけど、それでもハル先輩は俺にはっきりと言ったんです。『紫音の事忘れたくない』って」
ドクン。心臓が大きく高鳴った。ぎゅーっと胸が締め付けられる。目の前が滲む。
この感覚、知ってる。今朝目覚めた時とまるっきり同じだから───。
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