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memory 1

「ハル先輩……!」  気がついたら、愛する人が涙を流していた。  ハル先輩は、俺の言葉なんか全く耳に入っていないみたいに無反応、無表情。けど蛇口が壊れたみたいに止めどなく涙が溢れていた。 「ハル先輩!ハル先輩!どうしたの!?」  何がきっかけだったのか、突然人形の様になってしまったハル先輩が心配で心配で堪らなかった。頭痛に苛まれて意識を失ったり、悪夢にうなされたり。これまでも辛そうなハル先輩の姿は何度も目にしたけれど、こんな姿を見るのは初めてだったから。その姿はまさに脱け殻と言って等しかった。一点を見つめたまま微動だにしない瞳はまるでガラス玉の様。俺の姿を反射するだけで、その実何も映していない。 「ハル先輩!もういい!もうやめよう!何も思い出さなくていいから!全部忘れていいから!」  相変わらず無反応なハル先輩に何度となくそう叫んだ。激しい後悔。ハル先輩が壊れてしまったらどうしよう。このまま戻ってこなかったら…………。  不安で不安で堪らない時間は、オレンジ色の太陽が水平線の向こうに消えて辺りが真っ暗になるまで続いた。 「寒くなってきた。帰ろうか」  唐突に終わりを告げたのは、ハル先輩のこの言葉だった。驚いた。本当に突然、何事もなかったかの様に普通にハル先輩が喋り出したから。 *  民家ばかりの中にぽつんと佇むその民宿は、俺たちが高校を出た後に建ったものらしかった。当時は知る人ぞ知る穴場的海水浴場だったここも、最近はシーズンになると結構混雑する様になったらしい。 「けど夏以外はだめね、全然。今日はあんた達貸し切りだよ」  部屋へ案内してくれる道すがら、恰幅のいい女将さんはそう言って豪快に笑った。通された部屋は、2人で使うには広くて和室が二間あった。奥には布団が用意してある。  あれからハル先輩とは、体調を尋ねる以外に殆ど会話らしい会話もできないままだった。どこか物思いに耽っている様な雰囲気のハル先輩に雑談を投げ掛けるのは躊躇われたし、これから俺が話そうとしているのは、歩きながらとかでできる内容じゃない。ちゃんと腰を据えて、落ち着いた場所で話したかったから。 「ハル先輩、もう無理しなくてもいいですから」  広い室内を眺め歩いていたハル先輩の背中に声をかける。 「…………無理なんかしてないよ」  少し間はあったものの、ハル先輩が平然とした風に言った。 「だってさっき、浜辺で……ハル先輩凄く泣いてたし……」  脱け殻の様になってしまった事について言うのは憚られた。ハル先輩は自覚があるのだろうか。もしないとしたら、ショックを受けかねない。 「心配かけてごめん。けどほら。もう普通に元気だから」  泣き腫らした目は誤魔化しきれてないけど、ハル先輩は笑って見せた。俺には空元気にしか見えない。 「さっきはっきり分かりました。優柔不断でごめん。けど俺、やっぱりハル先輩に辛い思いさせるのは嫌だ」  一緒に記憶を取り戻そうって、支えるって誓った、その舌の根も乾かぬ内とはこのことだけど、ハル先輩をさっきみたいな状態にさせるのはもう二度とごめんだ。あの時自分が味わった不安だって、もう二度と。 「なあ紫音、約束しただろ?」  ハル先輩が言い聞かせる様な調子で静かに言った。 「けど、あんな姿見るのは、もう……」  もう耐えられない。 「分かってた事じゃないか。俺なんかより、紫音はよっぽど」 「それは、そうですけど……」  確かにそうだ。記憶を取り戻す残酷さは、全てを忘れていたハル先輩よりも俺の方がよっぽど分かってた筈だ。それなのに、何で俺は…………。 「覚悟はできてたから」  自分に言い聞かせる様に、けどきっぱりとハル先輩が呟いた。その言葉にはっと顔を上げる。ハル先輩は和室の奥にある板の間の広縁に立っていた。その背中は、何かに耐えるように強張って見えて……。 「ハル先輩……やっぱり戻ったんですか……?」 「全部じゃないけど、ね」  笑える状況じゃ──そんな生易しい記憶じゃない筈だ。けど、ハル先輩は気丈にも唇の端を持ち上げた。「負けて堪るか」そんな心の声が聞こえた気がした。 「覚悟はしてた。予想もできてた。けど、それでも……想像以上に、きつかったな」  俺が絶句しているのを他所に、ハル先輩はまた苦笑した。

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