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memory 2
記憶を取り戻す。そう決めた俺たちは、ハル先輩の失われた記憶を呼び戻す為にこれまで色んな場所を巡って色んな人に会った。中学校から始まり、バスケ部でよく行ったファミレスや遊び場。中学時代のハル先輩の同級生や、連絡のつくバスケ部の連中とも会った。けど、そのどれも記憶を呼び戻す切っ掛けにはならなくて、次の段階に進むこととなった。つまり、高校生活へ。俺は、正直気が進まなかった。中学は、あいつなしの思い出の方が多いくらいだけど、高校以降は…………。
全ての記憶を取り戻したいと言うハル先輩の一方で俺はまだ抗っていたのだ。どうにかあいつ以外の記憶だけを取り戻せないものか、と。だから、あいつに関連するものにはなるべく近付かない様にした。
オフを利用した今回の1泊2日の千葉旅行でハル先輩が面会を希望した高校時代の同級生望月にも、楽しかった思い出だけを話すよう根回ししておいたし、思い出の場所巡りも俺とデートした場所を中心に組み立てた。それなのに、やっぱり高校以降はあいつの記憶が色濃すぎるのだろう、所々でハル先輩は辛そうな表情を見せた。東京とここを繋ぐ駅のホームで。デートで行った喫茶店で。二人でバスケをした公園で。俺は、「もうやめておこうか」とハル先輩に何度も提案した。けど、ハル先輩は首を縦に振らなかった。ハル先輩の意思は、覚悟は、それだけ堅かった。
そして最後に訪れたのが、二人でよく行ったあの浜辺だった。並んで砂浜に腰掛けて、あの頃眺めたサンセットを見た。繋いだ手の温もりに、触れるだけのキス。俺の心にもあの頃の思い出がぶわーっと溢れて、懐かしさやら後悔やらの色んな感情に呑まれて、ハル先輩の変化に気付くのが遅れたのだ。我に返った時にはハル先輩はボロボロ泣いていた。その記憶から逃れる為だったのだろう。感情を殺し殻に籠った魂は、声もなく慟哭していた。
ハル先輩が記憶を取り戻した。ぽつりぽつりと溢すハル先輩の言葉を解釈するに、あの浜辺で過ごした時の事を、その時の感情と共にって感じらしいから、戻ったのは無くした記憶のほんの一部だ。けど、当時あの浜辺でハル先輩が思っていたこと、感情──つまり、心の中には間違いなく黒い影があって、それを遡るとあいつに繋がる。その事をどれだけの具体性とリアリティーを持って思い出したのかはとても聞けなかったけれど、ハル先輩の口ぶりからすると、「何をされていたのか」は見えてしまっていた様だった。
言葉が見つからないとはこのことだった。元々、口は達者な方ではない。あいつによって再び傷付けられたハル先輩を癒せる台詞なんて、俺のこの頭では生成できない。だから───。
「俺がいるから!」
気丈に振る舞っていたハル先輩は、けど抱き締めて漸く分かるくらいに小さく震えていた。
「俺、過去のハル先輩に何もできない。してやれない。けど……今は俺がついてるから!ずっと、これからも一生ハル先輩の傍にいるから!何があっても、ハル先輩の事ずっとずっと支え続けるから……!」
だから何だよ。自分で自分に突っ込んでしまうくらい単純な事しか言えてない。けど、これが俺にできる全てなのだ。それしか出来ない、とも言うけれど……。
「折角我慢してるのに……泣かせるなよ、紫音」
ハル先輩が声を震わせて言った。肩口がじんわり濡れていく。温かい。ああ、生きている。俺も、ハル先輩も。過去は変えられなくても、生きてさえいれば未来はある。一人で背負いきれない過去も、二人でなら持っていける筈だから……。
「幸せにするよ。辛い思い沢山した分を差し引いてもおつりがくるくらい、俺がハル先輩を幸せにするから」
「なんだよ、それ」
プロポーズみたい。ハル先輩が、泣きながらクスクスと笑った。
プロポーズはもう済んでます。そう言ったらハル先輩はどれだけ驚くんだろう。あの日の事も、いつか思い出してくれるかな。
「愛してるよ、ハル先輩」
ひっくひっくと動いていた肩の動きが一瞬止まる。肩口に押し付けられた額が、心なしかさっきよりも熱く感じた。
*
「あの浜辺でね、思ったんだ」
泣き止んで暫くしてから。ハル先輩がぽつりと言った。
「ここで見たこと、聞いたこと、感じたこと、全部。絶対に取り返したいって。今までにないくらい、強くそう思った」
あの浜辺での思い出。それは俺にとっては甘くほろ苦いもの。けどハル先輩にとっては、切なくて悲しくて苦しいばかりのものだった筈だ。
「もうこれ以上、辛い記憶を思い出す必要はないです。記憶がなくても、ハル先輩はハル先輩なんですから」
言うと、ハル先輩がふるふると首を横に振った。
「確かに、酷い記憶だった。正直、今でもまだ整理はついてない。けど、それでも俺は後悔はしてないよ」
「どうしてですか……?」
ハル先輩は少し遠くを見る様に目を細めた。
「このまま時が止まればいいと思った」
俺だって同じです。そう、安易に答えそうになった。けど───。
「このままあの太陽がずっと沈まないで、夜が来なきゃいいって」
けど、言えなかった。遠い目をしたハル先輩が見ている景色を、あの時俺は同じ温度で見てはいなかった。ハル先輩のその想いは俺のよりももっと切実で、悲しいものだった。
俺がのほほんと過ごしていたあの時間が、ハル先輩にとってどれだけかけがえのないものだったのか。全てを知った後の俺は、察していたつもりだった。けれど足りなかった。全然足りなかった…………。
「紫音、ありがとう」
その声に顔を上げる。もうハル先輩は遠い目をしていなかった。それどころか、無力感に押し潰されそうな俺にふわっと微笑んだ。
「あの時俺を支えてくれてありがとう。そして今も変わらず隣にいてくれて、ありがとう。俺、大丈夫だよ。いつでも──今でも、それに記憶の中でだって、紫音が俺を守ってくれるから。だから、大丈夫だよ」
俺はハル先輩の身体を再び抱き締めた。やっぱり無力な俺にはそれしかできなかった。尊くて愛しいその身体を、魂を、過去も今も未来も全部……。全部、守ってあげられたらよかったのに。
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