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memory 3
「えーと、春……?」
突然フリーズしてしまったハル先輩を前に、秋良が目をぱちくりさせている。
あの浜辺での一件以降、ハル先輩はほんの些細なきっかけで記憶を取り戻す様になった。
思い出す記憶は様々で、俺との何気ない会話だったり、何の害もない日常の一コマである事もあれば、辛い記憶である事もある。
嫌な記憶が甦ったは時は決まって、今の様に長時間フリーズしてしまう。けれど、我に帰った後のハル先輩はいつも気丈だ。取り乱す俺を安心させる様に「大丈夫だから」と言って、ぎこちなく微笑んでみせるのだ。
だから、心配で心配で堪らないけれど、俺は取り乱すのをやめた。一番辛い思いをしている筈のハル先輩に気を遣わせるなんて本末転倒。懸命に冷静さを装ってハル先輩が帰ってくるのを待つ。そして、戻ってきたハル先輩の手を握り、「俺はここにいる」と告げる。どんな時だって、何があったって、俺がついてるからねって。
だから今も、ハル先輩の目の前で手を振ったり手を叩いたりと騒がしい秋良を横目に俺は落ち着いて(いる風を装って)いる。
ハル先輩的に何か思うことがあったのか、ハル先輩が俺に告げた「会いたい人」の筆頭がこの男秋良であった事に俺は少なからず苦い気持ちになっていた。それに加えて、こいつとの記憶はハル先輩にとって酷なものばかりなのは判りきっている。
そういう訳で俺の気が進まず、こいつと会うのは随分後の方になってしまった。というか殆ど最後に近い。
「おい紫音、春が変なんだけど……」
いつも人を食った様な態度の秋良が珍しく頼りない声をあげている。
「お前の悪行を思い出してるせいでな」
「えっ……」
秋良が驚き絶句した。今回の面会が、ハル先輩の記憶を取り戻すためのそれである事は、こいつには話していなかった。
「春、記憶戻ったのか……?」
「だから今思い出してる最中だって言ってんだろ」
突然聞かされたこの男が混乱するのも無理はないとは思うが、こいつが過去やった事のせいで今ハル先輩が苦しんでる。その事実に苛立ってつい口調が荒くなる。
「まじか……」
ぽつりと呟いてばつの悪そうな顔で俯く秋良を尻目に、愛しい手をぎゅっと握り直した。
*
唐突に光を取り戻した瞳が不安気に彷徨う。
「ハル先輩」
俺はここだよ。そう告げる様に名前を呼ぶと、ハル先輩はほっとした様に深く息をついた。
「大丈夫……?」
「うん……」
ハル先輩は気丈にもそう頷いたけれど、今回のフリーズはいつもより長かった。きっと、断片的と言うよりは、結構な数の記憶に襲われていたのではないだろうか。
「あ、あのさ、春……」
ハル先輩と俺は、殆ど同時にその声に反応した。元凶はもう少し黙ってろとぎろりと睨んだからだろうか。奴は口ごもった。ハル先輩の様子を横目で確認したら、俺とは違ってその目に怒りの感情は微塵も浮かんでいなかった。
「柚季……」
ああ。そうだった。ハル先輩は、こうだった。
名前を呼ばれた本人でなくてもはっきり分かった。これまでの記憶を無くしてたハル先輩とは、その名を呼ぶときの温度が違うこと。俺に分かったぐらいだ。奴にとってその違いはもっと歴然だったのだろう。秋良は居座まいを正すと、殆ど土下座する様な勢いでハル先輩に向かって頭を下げた。
「春ごめん!俺、お前にひでえことたくさん……本当に、たくさん……。なんつーか……そーいう記憶が真新しい今のお前には信じて貰えないかもしれないけど、俺本気で反省してんだ!お前の嫌がることはもうしないって決めてるし!それでも過去は消せねえけど……ともかく、ほんっとにごめん!!」
「顔を上げろよ、柚季」
静かに言われて、秋良がおずおずと頭を上げる。
絶対許さない。お前とはもう二度と会いたくない。ハル先輩がそう宣言してくれたら、俺は清々するなあなんて思っていたが。
「俺のせいで何回も謝らせてごめんな」
「そんな……っ」
「謝ってくれたのも、ちゃんと思い出したから」
「けど……今の春にとっては、俺がひでーことしたのはついさっきだろうから……」
「そんな事ない。ちゃんと、分かってる。過去の事だって、理解してる」
「そうだとしても……!なあ紫音!お前、こうなること分かってたんだろ!なのに何で春を俺に会わせた?なんで……!」
俺に向いた秋良は歯噛みして拳を震わせている。珍しく同意だ。まるっきりその通りだ。俺だって会わせたくなんかなかった。
「紫音は悪くない。俺が、お前に会いたかったんだ」
「春には分からなかったからだろ!こんな過去があったこと、知らなかったから……」
「知ってたよ」
「え」
ハル先輩がさらりと言った。え、が秋良とシンクロする。それは初耳なんですが。
「お前との間には何かがあったなってことは、薄々感じてた。それが確信に変わったのは黒野と会ってからだけど」
そうだったんだ。そう言えば黒野と会った時のハル先輩は普段よりも長めにフリーズしてた。心配になって「ハル先輩に何かしたのか」と黒野に詰め寄っていたらハル先輩が帰ってきて、高校生相手に何してるんだって叱られたんだっけ。
「じゃあ何で……」
「知りたかったんだ。そんな柚季が今の俺にとってどんな存在なのか」
「え……」
「柚季。確かにお前には傷付けられた。昔な。けど、今の俺の脅威じゃない」
ん……?あれ、なんだ。なんか今のハル先輩の台詞引っ掛かるな。
「俺はお前に感謝してるよ」
けど続いたハル先輩の言葉に、ついさっき生じた奥歯に物が挟まったような釈然としないモヤモヤ感はあっという間に忘れ去られた。
「ちょっ、何でですかハル先輩!」
俺は密かに、この面会で奴がハル先輩にこっぴどく嫌われる事を願ってた。それなのに、過去のこいつの鬼畜の所業を受け入れるどころか感謝するなんて。ハル先輩さすがに甘すぎるって。
「なあ紫音。記憶はちゃんと戻ってないけど、俺は昔の……中学生のままじゃないんだ」
「分かってます」
秋良の手前もあって当たり前ですって大きく頷いてみせたけど、嘘つけと自分の中の自分が突っ込む。ついこの間まで、ハル先輩は中学生までの記憶しかないから……ってウジウジ悩んで告白できなかった癖に。
「柏木先輩の事、赦せなかった頃の俺じゃない」
ギクリ。後ろめたい事をずばり指摘されて、流石に何も言えなくなる。
「それが分かって、ほっとしてる。柚季の事赦せたのは、俺があの頃よりもちゃんと成長して、強くなったって事だから」
一人気まずくなっていたけれど、当然の様にハル先輩に俺を責める意図はなかった。
ていうかハル先輩、あなたはなんてなんって天使なんだ……。つまり、罪人を赦せた自分に気が付かせてくれてありがとうって事を、当の罪人に言ってるんだろ?いやいやいや、待て。いや待て。あんな事されて、赦してること自体がまず天使だ。その上、感謝までするとか、天使以上だ。神だ。心なしかハル先輩に後光がさして見える。ハル先輩……。貴方はどうしてこんなにも美しいんだ。見た目も中身も、神聖な程に……。あの減らず口の秋良も、ハル先輩の圧倒的天使感にやられてぽーっとしていやがる。
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