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memory 4

「あいつが幸せそうでよかった」  あれから終始ぽーっとしたままだった秋良が帰ってから、ハル先輩が一人言の様にぽつりと言った。 「……え?」  ちょっと考えたけどやっぱり意味がわからなくて溢れた俺の声は、多分ハル先輩に届いてない。俺が考え込んでた内に、お腹空いたな、って言いながらキッチンに立ったからだ。 「ハル先輩、あの……」  冷蔵庫の中を覗いて戻ってきたハル先輩の手には、缶ビールと魚肉ソーセージが2本ずつ握られていた。そうして、俺の呼び掛けに首を傾げている。 「え、ハル先輩、それ……」  どういう意味かを聞こうとしていた。けど、それよりももっと聞きたい事ができてしまった。 「目に入ったから。付き合ってよ、紫音」  ふわっと笑って、俺にビールを差し出してくる。思わず受け取ると、ハル先輩の笑みは更に深くなった。ソファを背凭れにローテーブルの前に座り込んだハル先輩が、おいでおいでと俺を手招きする。 「珍しいですね、ハル先輩がお酒飲みたがるなんて」  呼ばれるままに斜向かいに座ると、ハル先輩がふふっと声を出して笑った。どの程度かは分からないにしても、記憶を取り戻し現在の年齢と経験を自覚しているハル先輩に対して飲むなと言う気は今更ないけれど。  プシュっと炭酸の抜ける音がした。プルタブを押し開けた缶ビールを片手にハル先輩が俺を見ている。慌てて、俺も缶を持ち上げた。かんぱい。そう言い合って二人同時に口をつける。ゴクゴク。ハル先輩の控え目な喉仏が上下するのを横目に盗み見ながら、久し振りの喉越しを味わう。 「はー。おいしいね」 「ですね。けどハル先輩、ビール好きでしたっけ?」 「んー、時と場合によるかな。今日は美味しい」  満足気に微笑んだハル先輩は、魚肉ソーセージの赤い包装を破いて中のビニールを器用に剥がすと、ピンク色の中身にパクリと食い付いた。本当にお腹減ってたんだ。俺は無意識に、無自覚に、その姿をぼーっと見ていた。  ふいに、ハル先輩の手がテーブルの上に差し出された。何か分からず取り敢えずその上に自分の手を重ねたら、ふはっとハル先輩が笑った。 「違う違う、ソーセージ」  ハル先輩が目で指すのは俺の缶ビールの手前に置かれた赤い袋だ。手渡すと、さっきみたいに早業でするりとソーセージが剥かれた。はい、と戻される。 「食べたいんじゃなかったんですか?」 「まだあるよ」  一旦テーブルの上に置かれてた自分の分のソーセージを持ち上げてふるふると振ってみせる。そして、剥いて欲しいのかと思って、と言った。俺は目を丸くした。ハル先輩、まさか。 「思い出してくれたの……?」  ソーセージを握るハル先輩の手を両手で握り込んで、翡翠色の目を覗き込む。 「紫音、これ剥くの下手くそだったよな」  照れ臭そうに微笑むその姿を見て、胸の奥がジーンと熱くなった。ハル先輩が、こんな、取るに足らない些細な事を思い出してくれた。それが、どうしてだか物凄く嬉しかった。俺とハル先輩の間にあった思い出、記憶。それは大きな物から些細なものまで様々で、プロポーズしたことなんかは、俺にとって忘れられない大きな思い出だ。けど、こういう、自分でもうっかり忘れてる様な何気ない日常の記憶も、プロポーズの日の事と変わらないくらいにこんなに愛しくて尊いものだったんだって今初めて気付いた。こういう些細な出来事の積み重ねが、俺とハル先輩の関係を築いてきた。 「肩の荷が下りた様な気がして」  意外とアルコールに強いハル先輩が、普段と変わらない顔色で何本目かのビールを傾けながら言った。俺の、どうして飲もうと思ったのかって質問の答えだ。 「柚季とは、何かがあったことが分かってたから。早く会って知りたい反面、会うのが怖くもあった」  『分かってて会わせた』  秋良に指摘されたこの言葉はまだ俺の中で燻っていた。いくらハル先輩が気にするなって言っても、傷付くと分かってて会わせた罪は消えない。 「──だからさ、終わってほっとしたんだ」  己が罪の意識は胸の中の奥深くに隠して、ハル先輩に合わせて笑顔を作った。 「そういう事なら、今日はぱーっと飲まなきゃですね!」  満足気に頷いたハル先輩の手元には、有言実行と言わんばかりに空き缶がどんどん増えていく。他愛のない話をしながら、そのやりとりの中で、そう言えば前にこういうことがあったなって、これまた他愛のない、けど俺とハル先輩にとっては大切な大切な思い出を呼び覚ましてくれた。記憶を取り戻す度に、俺とハル先輩の距離が縮まっていく様な気がして、幸せだった。まだまだ忘れてる事も多いけれど、こんな風に少しずつ、ハル先輩が俺の腕の中に戻ってきてくれる……。

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