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memory 5

「そう言えば、さ……」  言い淀んでいると、ハル先輩がこてんと首を傾げる。可愛いって言われるのをあまり好まないハル先輩がこんな可愛い仕草をするなんて。顔色は変わってないけど結構酔っているのかもしれない。その予感に、背中を押された。 「さっきの、あいつが……秋良が幸せそうでよかったって、どういう意味だったんですか?」  和やかな雰囲気に水を差すのは本意ではなかったけれど、「幸せだな」って感じたその瞬間から思い出してしまって、ずっとどうにも気になってしょうがなかった。 「ん?俺、そんな事言った?」  思いきって切り出したのに、事も無げにハル先輩はそう言う。 「あいつが帰ってすぐ、確かにそう言ってましたよ」 「言ったっけ?」  さっき傾けたのとは反対側に首を傾げて、視線が上を向く。誤魔化してる様には見えない。少しの間その体勢で考え込んだ後、何か閃いた様にぱっと俺を見た。そして視線を合わせてにへら、と笑ったのだ。 「紫音、妬いてるのか?」 「っ………!」  赤い唇の端を持ち上げて目を細めたハル先輩が、ずいっと俺の目の前に迫ってきた。願ってもない状況なのに、これまでずっと自分の欲望を我慢し続けてきた悲しき習性で俺の身体は仰け反ってしまう。 「なんだよ、逃げるなよ」  ぷくーっと頬を膨らませたハル先輩の吐息はアルコールのにおいがしていて、かもしれないどころじゃなく紛れもなく酔っ払っている。さっきまで変わってないと思ってた顔色が、今はほんのり火照って見える。目尻なんか紅を差した様に色付いているし、その瞳もどことなく水気を帯びている。 「ハ、ハル先輩……っ」  俺はそんな色っぽいハル先輩から目を逸らす事しかできなかった。だって、こんな近くで、こんな風に妖艶な顔を見せられて、まるで迫られてるみたいな体勢で、それでハル先輩のうるうるしてる綺麗な瞳を見てたら、そのまま吸い込まれてしまって、箍が外れて、欲望のままに色んな事をしてしまいそうだから……。 「……妬いてくれないんだ?」  なのに、ハル先輩は何を考えているんだろう。拗ねた様な甘えた声でそんな事を言う。 「そ、そりゃあ、当然、妬きますよ……!」 「ふーん」 「妬いたから、聞いてるんです……!あいつの事とか、あんま考えて欲しくないから……」 「紫音」 「は、はい……」 「こっち見てよ、紫音」  ドクン。心臓が大きく高鳴った。ぎこちなく逸らしていた視線を元に戻す。濡れた瞳と視線が合う。困ったみたいに眉がきゅっと真ん中に寄って、眉尻が可愛らしく下がっている。 「紫音は俺のこと……記憶が全部戻ってない俺のこと、前より好きじゃない?」 「そ、そんな訳……っ!好きです!昔も今も変わらずずっと、!!」  ずっと大好きです。その言葉を途中で飲み込んだのは、物理的に喋れなくなったからだ。仰け反って後ろに手をついていた肩を引き寄せられたと思ったら、唇に柔らかいものが押し付けられた。何が起きたのか、暫く分からなかった。それは、くっついていた唇がそっと離れて、ハル先輩の真っ赤に紅潮した顔がくっきりと視認できるようになるまで、ずっと。  ハル先輩に、キスされた。  そう認識した途端、着火でもされたみたいにボッと顔面が熱くなった。 「紫音のこと思い出す度に、俺、どうしようもないくらい……」  俺とどっちが赤いのだろう。首まで真っ赤になりながら、恥ずかしさに耐えきれなくなるみたいにハル先輩は喋りながらどんどん俯いていって、最後にはとん、と俺の肩に額を乗せた。そして、吐息混じりの声で言ったのだ。 「紫音のことが、すき」  気付いたら、その唇を奪っていた。全身の血に火が着いたみたいに身体が熱い。心臓が肋骨を突き破る勢いで胸を叩いている。今度は俺の勢いにハル先輩の方が仰け反って、腕だけで俺と自身の体重を支えている。が、やがて堪えきれなくなり、崩れ落ちた。仰向けになったハル先輩の上に覆い被さり、角度を変えて何度も何度も口付けをした。その内にハル先輩の両手が首の後ろに回されて、ぎこちなく唇を啄み返してくれる様になった。許されていると感じた。受け入れてくれるだろうと確信した。その予想通り、やがて舌を入れて性的なにおいの色濃いキスを始めても、拒まれる事はなかった。きゅっと瞑った睫毛を震わせながら懸命に舌を絡め応えてくれるその健気さに、俺の箍が外れないわけがなかった。  気だるげにベッドの上に身体を投げ出すハル先輩の身体を湯で濡らしたタオルでそっと拭く。ハル先輩の薄いお腹の上は、濃かったり薄かったりする二人分の体液でべちょべちょ。それだけでなく、間に合わず暴発してしまった分がその体内にも残されていて、さっきまで散々貫かれていたためにはくはくと口を開いている後ろの穴から、つーっと白濁が溢れ出ている。余りにも、無理をさせた……。  ずっと我慢してたから、なんて言い訳が全く可愛く聞こえないレベルの無体に、やってしまった俺の方が目眩を起こしそうだ。  過ぎる快楽に途中からハル先輩は何度も意識を朦朧とさせながらベッドの上で逃げ回っていたし、うわ言の様に、もう許してとまで言われた気が……。せっかく元の関係に戻れたって言うのに、幻滅されても文句は言えない。けど、出来れば……いや、お願いだから嫌わないで欲しい。言い訳にならないのは分かってるけど、本当にずっとずっとずーっと我慢してたんです…………。 「ごめんなさい」 「なんで、謝るんだ……?」  うとうとしていた眠そうな目がぼんやりとこちらに向く。 「だってハル先輩、きつかったでしょ?」 「……ちょっと、ブランク、あったから」  片腕を額の上に乗っけてふう、と一息ついて。その仕草だけを見ると気だるそうだけど、それとは逆に人懐っこい顔で冗談めかして笑う。多分これはハル先輩なりに俺に気を遣わせない様にしてくれているんだろう。そう思うと、これ以上謝るのもどうかと思い至った。  粗方身体の汚れを拭き終えた俺にありがとう、と小さく呟いて、ハル先輩はいよいよ瞼を下ろした。今すぐにでも睡魔に浚われそうだから、置いていかれない様に慌てて隣に潜り込む。眠る寸前のゆったりとした呼吸を繰り返す肩の上に頬を擦り寄せるとふ、とハル先輩の口元が笑って、慈しむ様にぽん、と頭の上に手が乗せられた。 「好きです、ハル先輩。大好き。好き。好き……」  髪に指を絡める様にしながら頭を撫でてくれるのが気持ちよくて、どうしようもなく幸せで、それ以外の言葉を忘れてしまったみたいに呟き続けた。ハル先輩の夢の中も全部、俺の愛情でいっぱいにしたかった。 「辛い思い、させてたな……」  穏やかだけどはっきりとした声がぽつりと落ちてきた。顔を上げると、とっくに瞼の奥に隠れたと思っていた優しい翡翠色が俺をじっと見ていた。 「起こしちゃいましたか……?」  ふるふると首を振るハル先輩は、もう微睡んではいなかった。その目にはっきりと俺を映しているのがわかる。 「紫音の事、忘れててごめん……」 「そんなこと……!ハル先輩のせいじゃないし……」 「ずっと待っててくれて、ありがとう」 「そんなの当然……!」  身動ぎしたハル先輩の身体が俺の方を向いたと思ったら、その表情を確認するよりも先に頭を両腕で抱き抱えられて胸の中に閉じ込められた。花のような、瑞々しい果実の様な甘いハル先輩の匂いを胸いっぱいに吸い込んだら、ハル先輩の一部が俺の中に溶け込んできた様な気になった。それでももっとひっつきたくて、1ミリだって離れたくなくて額をぐりぐりとその胸に押し付ける。とくんとくんと穏やかに繰り返される鼓動に抱かれながら、今日何度目かの幸せを噛み締めた。ハル先輩を作り上げる全てのものがいとおしい。ハル先輩を待つのは、俺にとって太陽が東から昇るのと同じくらい当たり前の事だ。俺が愛せるのは世界にただひとりだけなんだから……。  そんな想いが溢れ出したせいか、気付いたら目の前の滑らかな肌を啄んだり、舌先でぺろりと舐めたりしていた。くすぐったそうに肩を揺らしたハル先輩に小声でこら、と叱られる。それでもやめないでいると、呆れた様な、けどどこまでも優しくて甘やかす声にくすりと笑われた。 「大好きだよ、紫音」  微笑みと共に降ってきたその言葉に、いたずらしていた唇の動きが止まってしまう。さっきは、好きだと言われて全身の血がたぎってハル先輩を抱き潰してしまった。けど今はその熱が胸の奥に、心の真ん中に一気に流れ込んできた。 「もう、絶対に忘れたりしないから」  ぎゅうっと一層強く抱き寄せられて、唇がわなわなと震えだす。  ──そうだ。俺は辛かった。ハル先輩の気持ちは、もう二度と手に入らないかもしれないって、不安で仕方なかった。葛藤と不安と悲しみと憤りと、沢山の黒い感情に飲み込まれそうになったことも一度や二度ではない。それでも、俺よりハル先輩の方が辛い筈だから。生きて戻ってきただけで感謝しないとバチが当たってしまう。そう言い聞かせて、これまで弱音を胸の内に押し込めてきた。けど今は。今だけは、自分の事だけを甘やかして、慰めてもいいんだ……。  目の前のすべすべした素肌がしとどに濡れていく。ハル先輩は何も言わずに、俺の背中をただただ優しく宥める様に撫で続けていた。

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