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remind 8
目を開けた。涙で滲む視界の向こうに、はあはあと息を乱し、恍惚とした刑事さんの顔があった。
「大丈夫、忘れていいんだよ。忘れた方が楽だよ。嫌な事は全部忘れちゃおう。向田に犯され続けた子供の頃のことも、ここで起こった惨劇も、覚えてる必要なんてないんだからね」
俺のまぶたが開いた事に気付いた刑事さんは、優しく言い聞かせる様にそう言った。口調とは裏腹に、俺の喉の奥に容赦なく腰を打ち付けながら。
相も変わらず動画は再生されていて、ぐじゅぐじゅと口の中を掻き回される音に混じって上がるうめき声が現実とシンクロしている。あの頃の自分の声は聞きたくないけれど、さっきまでの甘ったるい喘ぎ声よりは何倍もマシだ。
「あー……イクイク、イキそう……。春っ、あの頃みたいに全部飲んで、ね……ッ」
口の中に、覚えのある熱い体液が吐き出された。ゆるゆると残渣を搾る様に動いた後、ようやく口の中を占領していたものが出て行った。すぐさま、生温くなった苦いものを吐き出そうとしたけど、できなかった。口を塞がれたのだ。刑事さんの手のひらで。
「だめだよ。言ったでしょ。ちゃんと飲み込ん……あ、違う。10回モグモグして味わってから飲み込むんだったね。ほら、ちゃんとやって。動画の中の春はちゃんとやってるよ」
偉いねー。まだ子供なのに、今の春より何倍もお利口さんだよ。
刑事さんが発破をかけている声が凄く遠く聞こえる。
『いーち、にー、さーん……』
愉しそうに数える動画の声は、やけに大きい。刑事さんの身体で画面は見えていない筈なのに、にやけた顔の向田が頭の中にいる。それから───。
───フィルム映画を早回しで見ている様だった。断片的だった昔の記憶が、映像と共に全て頭の中に戻ってきた。視覚に写ったものだけじゃなく、あいつの体温も、感触も、においも、全部生々しく再生されていく。
失意のどん底で初めて襲われたあの日のこと。心と身体がバラバラになっていく絶望。全てを諦めなければならなかった数多くの喪失。そして、血塗れになったあの日のこと。
目を開けたら、刑事さんがあいつと同じ顔して笑ってた。
懐かしい、と思った。刑事さんの顔のことでも、こういう行為を受けることについてでもない。「戻ってきた」と表現すれば分かりやすいのかもしれない。こんな扱いも、こういう視線も、俺は慣れっこだった。自分を完全に取り戻せた事が懐かしい。それなのに酷い喪失感を覚えるのは、たとえかりそめだったとしても、純粋で綺麗なままだった自分が、大切なものが喪われてしまったせいだ。
「しゅ、春……?」
臆する事なく見上げる俺を不審に思ったのか、刑事さんの手が緩んだ。その隙に口の中のものを吐き出す。口を濯ぎたいと思うのは、穢れきった俺には贅沢な要求だろうか。
「あー!春!出しちゃだめだって……」
いくら穢れていたって不快で気持ち悪いものは気持ち悪いので、どうにか唾と一緒に少しでも吐き出したくて、慌てる刑事さんの事を無視して何度もぺっぺっ、と吐いた。いくら吐いたって、今更綺麗な自分になんか戻れやしないのに。
「どうして……」
「え……?」
「どうしてここのこと、黙ってたんですか?」
刑事さんの顔に明らかな動揺が走った。
「捜査は進展してないって。あいつの行方は分からないって、ずっと言ってたのに」
ここは、この邸は、俺が向田に監禁されていた場所だ。家具の種類と窓の位置で、厳密にあの惨劇が起こった部屋とは別の部屋だとは思うけれど、内装で分かる。ここは確実にあの山の奥の別荘だ。
「き、気づいたんだね、春くん。そうだよ、ここは春くんがあいつに監禁されて、昔みたく何度も何度も犯された場所だよ。え……けど、どうして……?気付いたなら、もっと、さあ……」
刑事さんが戸惑った様に口を詰まらせた。狂え。バカになれ。忘れてしまえ。刑事さんは何度も俺にそう言っていた。俺をここへ連れてきたのも、間違いなく俺を「そう」させるため。だから、刑事さんはきっとこう言いたいのだ。「どうしてそんなにまともなの?」と。
「事件はとっくに解決していたんですね。ちゃんと、教えて欲しかった。紫音の心労が、少しは楽になっていた筈なのに」
刑事さんは、まるで怯える様な顔して俺を見た。手足を拘束されて身動きが取れない、俺をだ。
「ここを見つけたのは、いつなんですか?」
もう一度、確かめるようにゆっくりと尋ねると、呆然としていた刑事さんの目に狂気染みた色が宿った。
「そ、そうだ!動画変えよう!元々春に見せようと思ってたのはこれじゃなくてね、もっとちゃんと、絶対に狂える動画がここに、」
「もういいです、刑事さん。あなたのお陰で全部思い出したんです。本当に、全部」
「う……嘘だっ!覚えてるなら……分かってて、春がそんな風にまともでいられる筈ない!」
必死な形相で目を剥く刑事さんに、俺は何も返さなかった。ただ悲しいと思った。
刑事さんをこんな風にさせたのは一体誰だ。
そう考えると消えてしまいたくなる。あの時───向田と志垣先生が血塗れになった時と同じように───。
「な……何だっ!何なんだよその目はっ!!」
刑事さんがふるふる震えながら喚く。悲しい。
「…………もうやめませんか?」
「なに?」
「これは本当に刑事さんがしたいことですか?」
ゆっくりと尋ねると、刑事さんの血走った目が、ほんの少し揺らいだ様に見えた。
「刑事さんはいい人でした。ただひとり紫音の事を信じてくれた。紫音にとって刑事さんの存在がどれだけ支えになったか……。俺は暫く記憶がなかったから能天気な所があったかもしれないけど、それでも正体の分からない不安は感じていました。そんな時に支えてくれていたのはやっぱり紫音と、それに、捜査を続けてくれていた刑事さん、あなたでした」
「そん……なの……」
「俺は刑事さんにこんな事して欲しくない……させたくないんです。あなたは根っからの悪人じゃない。紫音に、俺に見せた優しさも正義感も、全部嘘じゃないって俺は信じてます」
刑事さんは徐々に項垂れていって、ついには完全に下を向いてしまった。
「……今からでも、やり直しませんか。俺は今日の事も、これまでの事も、誰にも言いません。……紫音にも。だから、」
「いま……ら…………」
絞り出す様な声を出した刑事さんが突然頭を上げた。
「今更もう遅いっ!やり直せるわけないだろっ!僕はもう刑事として失格だし、春くんのことも裏切ってしまった……!けど、それもこれも全部春くんが悪いんだ!だってそうでしょう!?普通にしてたらどうあがいても手に入らない人が、どんなことやっても忘れてくれるんだから!春くんが悪いよ!僕の心を弄んで惑わせた上に隙まで見せて誘惑するから!ここのこと黙ってたのだって、事件が解決に近付けば春くんと会えなくなると思ったから……!青木くんは春くんを独占して誰とも関わらせようとしなかったじゃないか!だからっ、だからっ、僕は……っ!春くんのせいだ!全部春くんの……っ」
だから忘れてよ!全部忘れて!これまでと同じように!
刑事さんが壊れたみたいに忘れろ、忘れろと俺に詰め寄る。
「できません。ごめんなさい」
たとえ忘れた方が一時的に楽だとしても、もうそれはできない。紫音の為に。自分の為に。
「いやだ!忘れてくれないと僕は……!春くん……春……!僕だけの春になってよ……!なってくれないといやだよ!」
刑事さんはついに俺の胸にすがって泣きじゃくりはじめてしまった。両手をベッドに拘束されている俺には何もできないのに。
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