3 / 4

第3話

 雪の降る冬の夜。  玄関のチャイムの音がする。  僕は確認もせずに、玄関のドアを開けた。  そこには、雪で白くなった君が立っていた。   「とりあえず入りなよ。寒いし。君、死にそうな顔をしてる」 「驚かないのか」 「まぁ、ね。………案外、来るのが遅かったなと、思ってはいるよ」 「そう、か。聞いていたか」 「そりゃあ、まぁ。聞きたくなくても、共通の友人がいるし。どうしても、ね」  君が三ヶ月前に離婚したと、風の噂で聞いていた。  それから毎日ずっと、携帯電話を肌身離さず持ち歩いていた僕を、君は笑うだろうか。  眠る直前までずっと、携帯画面を見つめていた僕を、君は笑うだろうか。  それでも僕からは連絡を取らないと、決めていた。  もうこれ以上は、どんな些細な痛みも味わいたくはなかった。傷付きたくない。  一人で過ごした月日が、僕を臆病にしていた。 「とりあえず座りなよ」  雪で白くなった君の肩に、タオルをかける。 「これ、毛布ね。飲み物はコーヒーでいい?」  僕はキッチンの戸棚の前で、隠してあった君のマグカップに手を伸ばしかけて、止めた。その手前に置いてある来客用のマグカップを取り出す。    君の物は何一つ、捨てられなかったんだ。それでも目にするのは辛いから、全て隠してあるだけなんだよ。  君は少し痩せたね。彼女との別れが、そんなに苦しかったのかな。  それでも今日は、僕に逢いたいと、そう思って来てくれたんだよね?  まだ僕のこと、少しは好きだと、思ってもいい?  何一つ言葉に出来ないまま、コーヒーの香りが鼻先をかすめて我に返った。機械にセットしたコーヒーの抽出が、いつの間にか終わっている。  僕は立ち上る湯気を見つめながら、ソファに座る君にマグカップを手渡した。 「ブラックで良かった?」 「ありがとう」  僕は少し躊躇して、君の座る二人掛けソファではなく、いつもは本の置き場所になっているフットスツールに腰掛けた。  昔は隣が当たり前だったのにな。  一つ一つを比べては、一人でダメージを受けている自分が滑稽だった。  どこで会うよりも、この思い出の詰まった部屋で君と会うのが一番苦しいだなんて、思いもしなかった。  君はコーヒーをしばらく見つめてから、おもむろに立ち上がった。  ゆっくりと、手にしていたマグカップをローテーブルに置いて、君は青白い顔を下げたまま、早口に喋り出す。  いつも僕の顔を見ながら穏やかに話をした君が、あの日々が、無性に恋しかった。 「ごめん。来るべきじゃないのは分かっていたんだ。どのツラ下げて、お前の前に顔を出せるのかと」 「君の顔なら結構見てたよ。フロアは違うけど、僕たち同僚でしょ」 「そうじゃなくて。いや、そうだけど」 「うん」 「ごめん」 「ううん」 「バチが当たったんだ」 「そんな事ないよ」 「………ごめん」 「謝らないで」  ごめん、だって。  何に対してのごめんなんだろう。  僕がずっと待っていたのは、そんな言葉なんかじゃない。  頭を下げる君を、僕は虚しい気持ちで座ったまま見つめた。  せめて泣き出してしまわないように、息を詰める。  ああ。君がこの部屋を出て行くまで、どうかちゃんと笑えていますように。  別れを切り出したあの遠い日の夜を、思い出す。  一度はちゃんと出来たんだ。もう一度。どうか笑ってさよならを。今度こそ、僕の恋にさよならを。 「うん。………帰るよ」 「………そう。風邪、引かないようにね」  君は僕の方を少し見て、それから俯いて背を向けた。  僕はスツールに腰掛けたまま、君の背中を目で追いかける。  本当にこれで最後になるだろう君の背中。  君は優しくて、とても酷い男だ。  愛してた。心から。僕の最初で最後の人。  追いかけたい。身も世もなく縋り付きたい。愛がなくてもいいから、側にいさせてと泣き叫びたい。寂しい。苦しい。  こんなにも酷い男を、それでも愛してる。  愛してるよ。  さようなら。

ともだちにシェアしよう!