Ａｍａｒｏ8％Ｄｏｌｃｅ92％ 白と黒の盤上を見詰めていた紫苑色の瞳が大きく開かれる。 「勝った？」 感歎の様に幼い口から言葉が漏れる。未だ信じられない様子でアリーシャは瞳をぱちくりとさせている。 視線の先には倒された白いキングの駒があるチェスにおける投了の印だ。 「フフッ、おめでとう」 負けても尚楽しそうなレオンの声が幻覚で無い事を教える。 その声のおかげで最初は放心状態だったアリーシャの身体にじわじわと歓喜の熱が帯びてくる。緩んでしまいそうになる口元を押さえるのが大変な位嬉しい、本当なら握った拳を振り回して喜びたい位だ。 堅実な手を得意とするアリーシャは奇策を仕掛けてくるレオンとは相性が悪い。攻撃している筈がいつの間にか絡め取られ身動きが出来なくなってしまうのだ。 裏をかいても手を読まれたように配置された駒に囲まれ自分から罠に嵌まったような勝負も何度もあった。 組織の中では負けた事の無かったアリーシャのチェスに対する自信をレオンは悉く壊してしまったのだ。 だから今回はアリーシャ側から罠を仕掛けた。あからさまな構図にレオンが乗ってくるかは賭けだったが結果は大勝をアリーシャにもたらした。 盤上から下ろされた白い駒の山が目に映る。ここまで分かりやすい勝ちは久しぶりだ。破顔したくなるのをどうにか堪える。はしゃぐと子供だとレオンに思われてしまう。 「それで、お願いは何かな？」 勝利の余韻に浸るアリーシャの額に自分の頭を重ねてレオンが訪ねる。 そう、これは只の遊びではない。3回勝負して負けた方は勝った相手の言うことを何でも一つ聞く。 レオンは勝負に真剣さが増すからと嘯くがこの副賞のせいで今までとんでもない目に合わされて来たのだ。 けれど今回はアリーシャが『お願い』をする番だ。さて、何を頼もうか。家事を代わって貰うか、１週間いやらしい事をしないで貰うか。 楽しい思案を巡らせていたアリーシャだがふと不思議そうに首を傾げる。 「レオン何でそんなに楽しそうなの？」 これから何を言われるのか分からないのに目の前の相手は口を歪めてこちらを見詰めている。 負け惜しみでは無く本当に心底楽しそうなのだ。いっそ思い切り悔しがってくれたなら胸も晴れるのだが、どことなく得体の知れない怖さがあって手放しでは喜べない。 「大好きな子から命令されるって嬉しくない？」 そう言われてもアリーシャは困惑するばかりだ。チェス勝負は何度となくしてきた、その殆どがアリーシャの敗北だったのだが負けて歯噛みしている所にお願いまでされて楽しい筈など無かった。 そもそもお願いの内容事態が思い出したく無いようなとんでもないものばかりだ。 警戒していても甘言や挑発で盤上に引き摺り出され負ける、そんな過ちを繰り返す自分を何度叱責しただろうか。 思い返す度に悔しくて仕方がない。今だってきっとレオンは大したお願いはしてこない、出来ない。そうタカをくくっているのだろう。それ故のあの笑みなのだと思うと悔しさが募る。何とかレオンに一矢、一泡ふかせたい。 先程の勝負の数倍頭を回転させて考えていたアリーシャに一筋の光明の様な考えが閃く。 「決まった？」 駒を指で弄んでいたレオンもそれに気付いたのか顔を上げる。 「レオンは勝ったら何をお願いしてたの？」 唐突なアリーシャからの問いに一瞬不思議そうな顔をしたが直ぐに何時もの笑みを浮かべる。 「もちろん、ネコミミ着けてにゃーにゃー言って１日猫になって貰うつもりだったよ？」 あっさりと答えられたが聞いた方は脱力しそうになる。頭が恐ろしく良いのにどうしたらそんな情けない答えが浮かぶのか。 とは言えある意味好都合なのかもしれない。 人差し指をレオンの顔に向けて真っ直ぐ見詰める。 「じゃあ、それをレオンがやって！」 少しはレオンも恥ずかしい思いをすれば良い。意趣返しの積もりでそう言ったのだが相変わらずレオンは笑みを浮かべているばかりだった。 「んー、こんな感じか？」 鏡の前でネコミミをいじっていたレオンが首を傾げる。ちゃんと猫になるか見届ける為レオンの部屋まで着いて来たのだが有言実行してくれたようだ。 それにしてもとベッドの縁に腰掛けたアリーシャは思う、顔立ちが良くて何でも似合うと前から理解はしていがまさかネコミミまで似合ってしまうとは。 町に出てもこう言うお洒落なんです、と言ってしまえば罷り通ってしまいそうだ。 いつも恥ずかしい思いをしているのを分かって欲しくてお願いをしたのだが余り効果は無かったのかもしれない。 腑に落ちないアリーシャの隣にレオンが音も無くすわる。 「それじゃあ」 どうしたら良いのか困惑するアリーシャにレオンが笑う。 「可愛がってね」 「かっ…！」 とんでもない事を言い放たれてアリーシャは固まってしまう。普段だっていっぱいいっぱいの相手なのに猫になってしまったら完全に予測がつかない。 （失敗したかも） 後悔しても手遅れだ。とは言えこのまま放って置いて逃げるのも癪な気がした。 「レオン？」 「にゃあ」 恐る恐る名前を呼ぶと鳴き声が帰って来た。まさか今日１日話さない積もりだろうか。 （それは困る） 困惑しながらも期待に満ちた深紅の瞳に誘われるように手を伸ばすと頭を撫でてみる。 細いさらさらとした髪が気持ちいい。 「にゃー」 レオンの方も嬉しそうに頭を刷り寄せて来る。こうしていると本当の猫のようだ。 サーバルとかレオパードとか大型の猫科動物を思い起こさせる。後ろで結んだ髪が尻尾のようにふりふりと動いている。 ふいに顔を寄せたレオンがアリーシャの頬を舐め上げた。 「わっ！それ、ダメ！！」 慌てて距離を取る。本当に予測がつかない。猫らしいと言えば猫らしいが見た目はレオンなのだ、過度のスキンシップは恥ずかしい。 「にゃう～。にゃっ！」 叱られたレオンはちょっとだけしゅんとしたが今度は頭をアリーシャの胸に預けて来る。 押し付けるように頭を擦り付けられる。 「何してるの？」 「にゃー」 やっぱり鳴き声でしか答えてくれない。意志疎通が出来ないと何をされるのか分からなくて困るのだが。 「お願いだから人間の言葉で喋ってー」 「んー？匂い付け」 懇願するとようやく喋ってくれたが内容はよく分からない。鼻を擽る甘い香水の匂いはさっきからしているがそれを写してどうするのだろうか。 「猫ってこうすると落ち着くんだよ？」 猫は縄張り意識が強い。気に入ったものや周りを体を擦り付けて自分の匂いで満たして置かないとストレスが溜まるようだ。 レオンからそう説明されて納得したがある事に気付いてしまう。 「僕はレオンの所有物じゃないよ！？」 まるで身体に名前を書かれているようで落ち着かない。 引き剥がそうとするが今度はお腹の辺りに頭を持って来られて埒があかない。 「だって他の男の匂いがするんだもん」 まるでアリーシャが奔放に遊び回っているような言い方だ。数日仕事でレオンはいなかった、だからと言って他人を連れ込んで閨を共にするなんて事はあり得ない。八雲とフィオナ、二人と普通に過ごしていただけだ。 それとも二人の事を言っているのだろうか、自分を除け者にして楽しんでいたと思われたのだろうか。 （除け者になんかしないのに） レオンも含めて皆大切な家族で仲間なのだから。 うっかり恋人だと言う事を失念してしまう。そんなアリーシャの心を読んだのかは分からないがレオンが内腿を撫で始める。 「何、してるの？」 猫がマッサージをするみたいに手の甲をぐいぐいと押し付けてくる。恥ずかしいと思っている間に手はどんどん腿の付け根辺りに近付いてくる。 「しょうがないだろ？猫はミルクが大好きなんだから」 「みっ…ミルクって！？」 こう言う事には疎いアリーシャでもレオンが何を所望しているかは理解出来た。何故なら手は既にアリーシャの股関をまさぐっているからだ。 「だっ…ダメ！！」 慌てて止めるが言葉だけの牽制が効く訳もなくレオンはお腹の辺りに預けていた頭を滑らせるとズボンの上から性器を甘噛みする。 頭を突き抜けそうな衝撃が走った瞬間、レオンを思い切り突き飛ばしていた。 突き飛ばされたレオンはよろけて一旦離れたが口角を上げて笑っている。その目はまだ獲物を狙う獣の視線を保っている。 一方のアリーシャは顔を赤くして目の端には既に涙を浮かべている。 どうしていつもこうなのだろう。折角レオンに一矢報いた筈なのにいつの間にか絡め取られレオンのペースに填まってしまう。 まるでチェスの勝負のようだ。 文句も非難も山ほど頭に浮かんだが全部飲み込むと部屋から逃げるように出ていってしまった。 （そろそろおかんむりが解けた頃かな？） パソコンを打ち込みながらレオンは時計に目を向ける。それと同時に遠慮がちなノックの音が聞こえた。 今日は家に二人しかいない、誰かは直ぐに分かったので喜んでドアを開ける。 扉の向こうには大好きな恋人が少し伏し目がちに立っている。先程怒って出ていった手前バツが悪いのだろう。 「続き、したくなった？」 思わず軽口を叩いてしまう。 「そんな訳ないだろ！」 怒ったアリーシャが持っていたトレーで腹を思い切り刺す。トレーの角が見事みぞおちに填まり息が詰まった。こうなると分かっていてもからかわずにはいられない性分なのだ。 脇腹を擦りながらもアリーシャが持っている物が気になった。トレーの上にはマグカップが２つならんで湯気を立てている。 「これなら飲んでもいいよ」 そう言って差し出されたのはホットミルクだった。エッチな事を回避する苦肉の策なのだろう。こっちのミルクで我慢しろと言う事だ。 普通なら譲歩できる取引ではないがアリーシャが必死なのと辿り着いた答えが子供らしくていとおしくなってしまう。 「入ってもいい？」 断る理由など何処にもない、レオンは喜んで部屋へと招き入れた。 ホットミルクを飲みながらアリーシャはレオンの方を見詰める。一緒に座ってお菓子まで用意してくれたのだがレオンは一向に飲む気配を見せない。 「嫌いだった？」 そう言えばアリーシャにはよくホットミルクを作ってくれるがレオン自身が飲むのを見た事がない。甘党のレオン用に砂糖を多めにいれたのだが嫌いなものを無理強いさせたくはない。 「いや、違うよ」 アリーシャが困った表情を浮かべると慌ててレオンが否定する。 カップの取っ手を握る手に力が入るのが分かる、ホットミルクを真っ直ぐ見詰めてレオンが緊張した顔付きになる。張り詰めた空気に思わずアリーシャも息を飲んでしまう。 ゆっくりとレオンがカップに口を近付ける。 「あっつっっ！」 刺さるような声と共にごちりとカップの縁に歯が当たる音が響いた。 「だっ大丈夫？」 いつも飄々としていて取り乱したことが無いんじゃないかと思う位落ち着いているレオンの慌てぶりにアリーシャも驚いて顔を近付ける。 口元を押さえたレオンが何度も頷く。その姿も普段と違って心配が募ってしまう。確かに温かいが怯むような温度では無かったと思ったのだが、むしろ少し肌寒い今日などアリーシャにはじんわりと身に染みて心地良い位なのだがレオンにとってはそうでは無かったらしい。 「もしかして。レオンて猫舌？」 「にゃあ」 恐る恐る聞いてみると鳴き声で返された。 気付かなかった、いつも一緒に食事をしているのにレオンは全然そんな素振りを見せた事が無かった。 「言えば良かったのに」 無理矢理飲ませてしまった罪悪感にアリーシャもしゅんとしてしまう。 「だってアリーシャが作ってくれたんだし」 さらりと持ち上げられて少し恥ずかしくなってしまう。 「いつから？」 「子供の頃からずっとだけど？」 そう言われてアリーシャはぽかんとしてしまう。孤児院にいた頃はずっと一緒だったのに全然知らなかった。 「知らなかった」 思わず声に出てしまう。ようやく落ち着いたのかレオンが困ったように笑った。 「まあ、あんまり見せびらかす内容でも無いしな」 確かに、弱点を他人に教えるのは得策ではない。何処で足を掬われるか分からないからだ頭の良いレオンは子供ながらにそれを理解していたのだろう。 「でも嬉しい…かな」 少し頬を赤らめてアリーシャが笑う。 「弱点握れて？」 レオンの言葉にアリーシャは頭をゆっくりと振る。 「レオンの知らないこと知ることができて。嬉しいって思う」 今まで知らなかった相手の一面を発見できて理由は分からないのに胸が暖かくなる。 きっと知った事で相手を喜ばす手立てが増えて悲しませる事が少くなるからなのだろう。 「オレはそうでも無いかもな」 ちょっと考えたレオンが話す。 「アイツらに知らないアリーシャを教えられるのは癪っつーか悔しいし」 その答えにアリーシャは目をぱちくりとさせる。 「レオンも悔しいって思うことあるんだ」 何もかもが完璧で人より一歩も二歩も先を行くようなレオンは悔しがるなんて事無いと思っていたのに。 「アリーシャは特別だよ」 大好きな相手に特別と言われお腹がくすぐったくなる。恥ずかしくてきゅっと目を閉じた。 意見が違うのは仕方がない。レオンにはレオンの意志があるのだから考えや嗜好に違いが生まれるのは当然だ。だから合わさった時に嬉しさもひとしおなのだろう。少しだけ淋しい気持ちを仕舞い込むとレオンの手が頬に当たった。 「でも、アリーシャが教えてくれたり自分で見つけたら違うかもな」 目を開けると深紅の瞳がこちらを見詰めていた。暖かくて優しい『お兄ちゃん』の目だ。 「まだあるかな？知らないこと」 アリーシャもレオンの頭に手を伸ばす。律儀にもまだネコミミを着けていてくれた。 優しい瞳のままレオンが笑う。 「教えあっていこうな」 アリーシャも笑って頷く。教えられるばかりだったから教える事があるのは嬉しい。自分の事を知って貰うのは少し恥ずかしいけれどそれでもレオンが嬉しいと感じてくれるなら幸せだ。 沸き上がる喜びを噛み締めてしいるとふいにレオンが口元を押さえた。 「あー、やっぱ火傷したかも」 「え？あ、水。持ってくる」 慌てて立ち上がると手首を捕まれ床に押し倒される。 動こうにも身体を押さえつけられて起き上がる事ができない。非難めいた眼差しを向けるがレオンは何処吹く風だ。いつの間にか笑みもいつものからかうような笑いに戻っていた。 「教えてくれるんだろ？」 楽しそうにそう囁かれてパニックになる。こう言う事は知りたくないし充分に教え合った筈なのにまだ足りないというのだろうか。 「火傷は？」 どうにか逃げ出そうと頭を回転させる。 「アリーシャに治して貰う、こうやって」 言うが早くレオンは唇を重ねると器用に舌を絡めてくる。 擽るように舌を擦り合わせていくとそれだけで息が上がってしまう。 「にゃう～」 余程猫になるのが気に入ったのか一鳴きするとレオンが心底楽しそうに喉の奥で笑う。 「あ、猫って妊娠率ほぼ100パーセントなんだって」 頭に付いたミミを触りながらレオンが思い出したくように話す。けれどアリーシャにはそれが何を意味しているのか分からなかった。 困った表情を向けるとレオンが顔を近付けながらアリーシャのお腹撫でていく。 「赤ちゃんできちゃうかもね。オレ今猫だし」 想像だにしなかった内容に目が回りそうになる。そんなことある筈ない、でもレオンならもしかしてとも思ってしまう計り知れない相手だから。 「オレとの赤ちゃんは嫌？」 混乱で泣きそうな顔をするとレオンに悲しそうにそう言われてしまった。 嫌ではない、多分。でも。 「考えたことない」 そんな考えに普通は至らない、そもそも毎回いっぱいいっぱいなのにそこまで考えられる程余裕も無い。 「オレはよく想像するけどな、アリーシャに赤ちゃん出来たらなーって」 「僕を使って変な想像しないでーー！」 そんな事を考えながら毎回事に及んでいたのかと思うと恐ろしい。知らない事を知るのは嬉しいがこれは知りたく無かった。 怒って暴れてもレオンは離してくれない、それどころか宥められるように強く抱きしめられてしまった。 フーフーと荒い息をしながらレオンの腕の中で藻掻くとアリーシャまで猫になってしまった気分になる。 「アリーシャって本当にエッチが嫌いだよな」 楽しそうに笑われるとアリーシャの胸が少し傷んだ。本当は与えられるだけじゃなく自分からも与えたい。でもいざそう言う状況になると恥ずかしくて怖くなってしまう。 レオンは惜しみ無い愛情を与えてくれるのに、いつか呆れられていなくなってしまうのではと時折不安になる。 「ま、ちょっとずつ好きになれば良いよ」 そう言って軽く唇をレオンが啄む。その声音からはアリーシャの不安を慰める優しさと嫌いなままでは終わらせない強引さが伝わってきた。 「ミルクのお礼に今日はアリーシャからキスしてくれたら我慢するけど？」 出された条件にアリーシャはぽかんとしてしまう。てっきり無理矢理続きをすると思ったのに。 （本当に知らないことだらけだ） これからも知らない一面を知って、この度に驚いたり喜んだりしていくのだろう。 優しい未来に期待しながらアリーシャはレオンの頬に口付けをした。