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pappy☆panic
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「ただいま」
玄関を開けて八雲がそう呟く。こんな風に「ただいま」を自然に言えるようになったのはいつぶりだろう。
前は面倒臭くて恥ずかしかった筈なのに今は笑顔で「お帰りなさい」と言って貰えるのを待ち望んでいる自分がいる。
「わんっ!」
けれど帰ってきたのは元気な鳴き声だった。
「……は?」
思わず腹の底から声がでてしまう。
理由は二つ、まずこの屋敷に元気な鳴き声を上げる動物は飼っていない。もう一つはその鳴き声がいつも聴いている大好きな声に酷似していたからだ。
脹ら脛に何かが当たるのを感じて恐る恐る見下ろすと柔らかい金色の髪と紫苑色の瞳が見えた。
八雲の脇には何故か仮とは言え恋人のアリーシャが四つん這いで座っていた。
「アリー……シャ?」
驚き過ぎて舌を噛みそうになる。
「わん!」
何とか愛しい名前を呼ぶも帰って来るのは矢張り元気な鳴き声だ。
「お帰り~」
アリーシャの代わりに別方向から返事が帰ってくる。こちらは余り、と言うか絶対に聞きたく無い声だった。
「なにした」
レオンが部屋から出てくるや否や胸ぐらを掴む。睨まれているのに目の前の男は相変わらず飄々と笑っている。
「別になにも?」
何も無い筈がないのにレオンは小馬鹿にしたように笑う。一発お見舞いしてやろうかと拳を握るがレオンは器用に避けてしまう。
「ただアリーシャがあんまりにも気持ち良さそうに寝てたから、ちょっとだけわんちゃんになってもらっただけだよ」
一反木綿の様にヒラヒラ歩くと行儀良く座っているアリーシャをレオンが抱き締める。
そんなレオンに対して八雲は閉口するばかりだ。
(こいつは………)
アリーシャは薬に対して抵抗力がある、ならば暗示の魔法か何かだろう。以前猫にして大変な目に会ったと言うのにまるで懲りていない。
「うーん。それにしてもネコちゃんのツンな所も良いけどこう言う風に懐いてくれるならわんちゃんも良いなー」
「わん」
どうやら本当に暗示にかかってしまっている様だ。こんな状況だと言うのにアリーシャは嬉しそうにレオンに鼻先を刷り寄せている。
「ふざけんなっ」
色々と思案して、思考が五回程堂々巡りをした所でアリーシャをレオンから引き離した。
「ポチ、犬派だからって一人占めはダメだよ」
レオンが口を尖らせて拗ねる。八雲にとってはそんな姿気持ち悪いだけだがそれ所では無い。
「アリーシャの気持ち蔑ろにしてんじゃねーよ」
アリーシャは人間だ。ちゃんと意思も感情もある、それを易々と押さえむなど。
「別にオレは犬になって貰っただけだよ?好き嫌いの感情まで操作した覚えはないから」
子供じみた言い訳に聞こえる。
アリーシャだって好きで犬になった訳では無いだろうに。
「良いじゃん。魔法が解けるまで3人で仲良く遊べば」
含みを持った言い方に八雲は尚も呆れる。いったいどんな遊びをすると言うのか。
レオンが頭を撫でようとアリーシャに手を伸ばした瞬間振動音が玄関に響く。
ポケットからスマホを取り出したレオンが顔を曇らせる。何を見ているのか指先でスクロールさせていくとその顔は益々険しくなる。
「アリーシャごめんねー」
思い切り抱きつこうとしたレオンを今度は八雲がアリーシャごとかわす、そうそう何度も思い通りにさせてなるものか。
よろけたレオンが壁にぶつかりそうになるがステップで立ち直ると懲りずにアリーシャの頭を撫でる。
「どーしても出掛けなきゃならなくなっちゃった」
「さっさと行け」
本当ならば蹴り飛ばして追い出したい所だ。
「帰って来たらいっぱい遊ぼうねー」
「わきゃん!」
理解したのかしていないのかアリーシャはちょっとだけ高い鳴き声を上げてレオンの手を舐めた。
「ぐっ………ぬぬ……」
臍を噛むとはこう言う顔なのかと八雲はぼんやりと思った。とは言え悔しそうなレオンの顔を見ても1ミリも同情など出来ない。
後ろ髪を思い切り引かれながらパタパタとレオンは色々な支度をして八雲に簡単な説明をすると最後に地球が終わるのではないかと思う位のため息をして出ていった。
「なんなんだ。アイツは」
呆れても元凶がいなくなってもアリーシャが元に戻る気配はない。
「わん」
むしろ普段見慣れない高い景色を楽しんでる様にも見える。そのせいか下ろそうにもアリーシャの方から掴まってきて離れようとしない。
普段なら嬉しい限りだが相手が犬となるとどうしたら良いものかさっぱり分からない。
「何かねーかな」
アリーシャを抱き抱えたままソファに座ると大きな箱を開ける。アリーシャと遊ぶようにレオンが用意していたものらしい。
中には犬の気を引きそうなおもちゃや猫が遊ぶのではと思うようなアイテム、とても公然では見せられないような品まで入っている。
「んー……」
どれが良いのか悩みながら箱を漁っていると黄色の小さなボールが転がり出る。
「わぅん!」
それを見たアリーシャが嬉しそうに跳ねて追いかける。そして。
「お……おい」
思い切り壁に激突した。
振動で棚にあった花瓶が落ちて床が水浸しになる。
「きゅうん……」
八雲が駆け寄るとアリーシャは小さくなって情けない声を上げる。
どうやら怒られると思っているらしい。
「怪我、してないか」
ぶつかったであろう鼻先を優しくこする。
眉を垂れ下げて八雲を見ていたアリーシャが小首を傾げる。矢張り可愛いものは動物になっても可愛い。
「割れてはいねーみたいだな」
押し倒したい気持ちを誤魔化すように花瓶を手に取るとレオンが脱ぎ捨てていった上着で床を拭く。
その様子をぴったりとくっつきながらアリーシャが覗いている。一応反省はしているようだし怒るのも違う気がした。
「外行くか」
軽く頭をぽんぽんと叩いて立ち上がる。こんな姿誰かに見られたら正気に戻ったアリーシャが卒倒して2度と外に出ないと宣言しかねない。そう危惧していたのだが庭くらいなら大丈夫だろうか、これ以上室内で遊ぶと家具が壊れかねない。
「わぅん!」
ドアを開けると柔らかい日差しと暖かい外気にアリーシャは嬉しそうに鳴く。
軽く投げたボールに勢い良く駆け寄り咥えると八雲の所まで戻ってくる。単純なことの繰り返しなのにアリーシャはひどく嬉しそうだ。
「膝痛くねーのか?」
よくも四足歩行でここまで器用に走れると感心してしまう程アリーシャは犬になっていた。
頭を撫でると嬉しそうに目を細める。
可愛いが矢張りどうしていいか分からない。八雲の場合、犬が大好きと言うよりもどちらかと言うなら猫よりは好きといった程度だ。
だから実際犬、もとい犬になったアリーシャを前にしても戸惑うばかりだ。これがレオンなら自分の欲望を素直に押し付けたのだろう。
「きゅうぅ~」
そんなことを考えているとアリーシャが鳴きながら八雲のズボンの裾を引っ張る。
「どうした?」
勿論答えてくれる筈は無いが代わりにアリーシャのお腹がくぅくぅなった。どうやら思いの外長く遊んでいたらしい。
「メシにするか」
背伸びをして家の中に入る。何だか八雲の方が凝ってしまったようだ。
台所に行くとテーブルの上に昼ご飯らしきものがある。陶器の器に半生っぽい肉が乗っているのがアリーシャの物だろうか。
「わん!わん!」
「落ち着けって」
嬉しそうにテーブルの上に乗ろうとするアリーシャをどうにか制する。まあ、流石に食べられない物をレオンが用意するとは思えないので与えることにする。
その横には「ポチ用」と紙が張られた器がある。どうやら一応八雲の分も用意してくれたらしい。
「って俺も餌入れかよ」
思わずいない相手にツッこんでしまう。しかも八雲の方がプラスチックでどう見ても安っぽい。
いったいどこまでおちょくれば気が済むのか怒りで震えたがアリーシャに催促されてどうにか自制する。
「どうすっかな………」
一応アリーシャは現在犬なのだから床で食べるべきなのだろうが、本来は人間だ一人で地面と言うのも忍びない。
だからと言って大人しく椅子に座ってなど無理だろう。さっきから五回以上テーブルの上に乗るのを止めている位だ。
「しょーがね」
結果、八雲も床に座って食べることにした。
「わふっわふっ」
矢張り、と言うかアリーシャは直に食べている。半生に見えた肉はドッグフードに似せたミートローフで味は良かった。
「にしても……」
夢中で食べているアリーシャを横目で見る。
この暗示はいつになったら解けるのか、レオンの言い方だと自然に治るような口振りだったが今戻ったらどうなるだろうか。
(ぜってー)
恥ずかしさで真っ赤になるだろう、下手をしたら泣き出してしまうかもしれない。
八雲としてはなるべく穏便に済ませたいのだが、今回も無理だろうか。
「わんんっ」
不意にアリーシャが勢い良く八雲の膝に上がろうとする。狙いは残っているお肉だ。
「これは俺のだ」
慌てて頭の上に餌入れを持ち上げる。一人前は十分にあった筈だ。普段なら自制している食欲のリミッターが解除されてしまったのだろう、尚もアリーシャは腕に飛び付こうとしてる。
その口回りは汚れているし良く見れば服も庭で遊び回ったせいで泥だらけだ。普段からは考えられない姿に八雲はため息を吐いた。
「次は風呂………だな」
色気もへったくれもない入浴を想像してがっくりと項垂れる八雲だった。
実際犬になったアリーシャを洗うのはかなり難しかった。水が嫌いなのか暴れるわ八雲を引っ掻くわで全く大人しくしてない。一応袖と裾を捲っていたが水浸しになったのは言うまでもなく、走り回るアリーシャを乾かすため何枚タオルを使ったことか。
結果どうにか洗うことは出来たものの着替えさせるような器用なことは出来なく洗濯物の山から引っ張りだしたシャツを着せるだけで精一杯だった。
「何で被害者ツラしてんだよ」
水を含んだ服を拭いている八雲をアリーシャは恨みの目で見上げている。
「ったく。そんな顔してると犯しちまうぞ」
そこまで言ってハタと気づく、家には今アリーシャと二人きりだ。大好きな恋人は目尻に涙を浮かべてお尻を立てて尻尾の代わりに尾ていをぴこぴこと振っている。
恋人の欲目抜きにしてかなり扇動的な眺めだ。誰かに見られていないか慌てて辺りを見回すが室内は静まりかえっている。
これは絶好のチャンスなのでは。
(いや…………犬だろ?)
いくら恋人でも犬に欲情するのはどうなのだろうか。いや、暗示がかかっているだけで実際は人間なのだが。だが本人が犬だと思っているし行動も犬っぽいし矢張り犬だろう。
いやしかし犬のフリをしていると言われればまたそれは別の話だ。
(犬……?アリーシャ………?)
ぐるぐると頭が回っていく。
「くきゅーん」
こうなってしまうと鳴き声さえ甘く聞こえる。幸いこの状況を犬のアリーシャは嫌がってはいないようだ。
押し倒すように抱きつくと八雲のシャツが濡れる。
「ん?」
見れば柔らかいアリーシャの毛先からポタポタと雫が落ちている。
「くきゅん!」
頃合い良くアリーシャがくしゃみをした。犬もくしゃみをするのだなぁ、と思いながら押し倒す前にまだやることが残っている事に八雲はため息を吐かずにはいられなかった。
ドライヤーを持ってくるとアリーシャの髪に当てる。
「きゃん!!」
突然の轟音と熱風にアリーシャは文字通り飛び上がって逃げてしまう。
「おっ………おい!」
そう言えばアリーシャは元からドライヤーが苦手だった。人間の時は我慢して当てていたが犬となればそうはいかない。
脱兎の如く部屋から消えてしまい八雲はアリーシャを見失う。
猫の時は散々探し回った記憶が甦り慌てて追いかける。
玄関から外に出ていないことを確認して一部屋ずつ探す。すると台所の角にある段ボールに頭だけ隠して震えるステルスアリーシャを見付けた。
こう言う所は犬らしいと言うか、段ボールを外すと泣きそうな目がこちらを向いている。
「………」
乱雑に頭をかくと八雲はアリーシャを抱き上げる。
猫なら大暴れしただろうが犬のアリーシャは固まるばかりだ。
リビングまで運ぶと大きな窓の前にアリーシャを抱えたまま座る。
「ほら………」
落ち着くように背中を軽く叩く。
「はふん……」
小さく吐息を漏らしてアリーシャが顔を上げる。
暖かい午後の日差しが燦々と窓から降り注ぐ。驚かせないようにそっとアリーシャの髪を掬う。
自然乾燥は髪に悪いらしいが背に腹は代えられない。撫でるように優しく髪を梳かすとアリーシャは日差しの暖かさもあってうっとりと目を細める。
(悪くないのかもな………)
淫靡な事は出来ないが穏やかで暖かいこの時間は好きになれそうだった。
「乾いたみてーだな」
じっくりと乾かした髪は日に当たってキラキラとしている。
流石にこれ以上は襲わない確証は持てないので早々に立ち上がる。
「わん、わん」
けれどそんなこと露しらずアリーシャは嬉しそうに八雲の足元をぐるぐる走り回っている。
「少しは休ませてくれ」
まだまだ遊び足りない子犬を前に八雲脱力する。
ぐったりとソファに座るとテーブルの上に「おやつ」と書かれた紙袋が目に止まる。
中を見てみると骨形のビスケットがいくつも入っていた。
こんな物まで用意しているとは、どれだけレオンは楽しみにしていたのか。
(まあ、様ぁみろだな……)
これまでの労を考えると果たしてどちらがラッキーだったのかはさて置いて、レオンに一泡吹かせた事にはならないだろうか。
「わふん!」
アリーシャがキラキラした目でこちらを見つめる。どうやら甘い匂いが気になるようだ。
「んーー……」
普通に与えても良いがこれはどちらかと言えばご褒美用の気がする。芸が出来たり我慢が出来たりした時の。
「ん?」
そう言えばアリーシャは何か芸が出来る体なのだろうか。ボール投げは完璧にこなしていたがあれだって本来は訓練しないと出来ないだろうに。
興味本意で手を差し出してみる。物は試し、基本のキだ。
「わん」
くりくりとした目でアリーシャは八雲の手に顎を乗せる。
「微妙に違うな……」
これはこれで凄く可愛らしいので思わずビスケットを上げてしまう。
とは言えこれからは注意しないとだ。芸くらい幾ら間違えても気にはしないが制止系の合図はちゃんと覚えさせないとアリーシャ事態が危険に晒されてしまう。
(いや………………いやいやいや)
うっかり今後の子犬育て計画を立ててしまった。アリーシャは人間だしこれから元に戻るのだからそんな物必要ないのに。
(けど………)
何かの手違いで戻らなくなったらどうするか。怖い筈なのに、変に興味を持ってしまった自分がいた。
このままずっと犬でこんな風に遊んだり世話をしたり。
アリーシャもこんな風に懐いてじゃれて、自分との思いでも忘れて。
そう思うと胸が軋んだが見たことがない位楽しそうだったアリーシャが思いだされてその痛みを埋めていく。
今も満足したのか八雲の手の上に頭を乗せて小さな寝息を立てている。無邪気なその顔がもし記憶と引き換えならは自分はどうするのか。
答えはきっとでないだろう。
(でもー)
アリーシャを抱き上げると寒く無いように覆い被さる。温かい体温が疲労した体に染みるように伝わる。
「嫌いにはなれそうにねーな」
いつの間にか八雲も笑みを浮かべながら瞼が落ちていった。
「ふわ………えっ?」
西に傾きかけた日差しを頬に受けてアリーシャが欠伸をするとそのまま言葉を詰まらせてしまう。
その声に八雲も欠伸をしながら目をさます。
「起きたの……………何で被害者ツラしてんだよ」
八雲の下に居たアリーシャは恨みがまし気な目で見上げている。
「八雲…………なんで………」
「戻ったの……」
そこまで言いかけて今度は八雲が言葉を詰まらせる。
アリーシャにしてみれば寝ていたらいつの間にかシャツ1枚にされて八雲にのし掛かられているのだ。
どう考えても襲われる一歩手前だ。
元に戻って良かったなどと安堵している場合ではない、これは一刻も早く誤解を解かないと一大事になる。
「アリーシャ……落ち着け……」
「やだっ……」
八雲の弁解を聞かずに暴れるとアリーシャはソファから転げ落ちてしまう。
その拍子に床に置いていたレオンの用意した箱に当たって中身が飛び出す。
中には犬の気を引きそうなおもちゃや猫が遊ぶのではと思うようなアイテム、とても公然では見せられないような品まで入っている。
その品々を見たアリーシャの体が震える。これは不味い。
「ア………リーシャ、話を………」
「ばかーーー!!」
八雲が説明をする間も無く平手打ちが飛んできた。
「説明させろって」
「どんな説明があるんだよ!ばかばかばか」
手当たり次第に物を投げられて最早避けるだけで精一杯だ。アリーシャの怒りが解けるまで誤解は解けそうにないがそれはいつだろうか。
そうこうしてる内にクッションが頭にあたる。矢張り制止系は教えておくべきだったと今さらながら八雲は思うのだった。
(ずいぶん。面白いことになったね♪)
扉1枚を隔てた向こう側で2人の喧嘩をレオンは楽しそうに聞いていた。
(まあ、これはこれで良いっか)
レオンに取っては楽しい展開に笑みをこぼすのだった。
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