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第29話

響は店内に足を踏み入れると、何人かの男の視線を感じながら、カウンターまで戻った。 「武宮さん、料理ありがとう。俺のだけは部屋に残してきた」 言葉少なにそう言えば、武宮は全ての事情を察したのだろう、リフトを開けて秀介が食べ残した料理を洗い場に並べる。 「ノーマルの人とうまくやるのは、難しいのかもしれないねぇ……」 「うん……そうかも……」 「響君、つらかったら家に戻っていていいんだよ」 「いや、こっちにいた方が気が楽……一人で家にいると、余計なこと考えそうで」 あの家には、まだ秀介の匂いが残っている。 だから、むしろ店にいた方が気が紛れるように思った。 「失礼、隣、いいかな?」 「え……?」 突然頭上から響いた、知らない男の声。 視線を上げれば、グレーのスーツに紫紺のネクタイを締めた、イケメンと呼んで差し支えない、見知らぬ男が立っていた。 多分、常連ではないのだろう。 「隣に座っていいかな?」 「……どうぞ」 響がそう応じると、店内にざわめきが巻き起こる。 男が響の隣に座れるはずがないと、周囲は予想していたに違いない。 「私はIT会社を経営している、尾高だ。君は?」 響は数舜、名乗ろうかどうしようかと悩んだ。 何と言っても、店で声をかけてきた男のことは、いつも門前払いをしていて、こうして相手をしたことがない。 「響」 だから、ファーストネームだけを名乗ることにした。 ただし、誰にも聞こえないよう、小さな声で自分の名を告げる。 「いい名だ。それで、君は何をそんなに思い詰めているんだ?」 尾高は遠慮なく、響の心の中に入り込んできた。 この人は、響の傷付いた心を慰めてくれるのだろうか。 ぽっかりと心の中に空いた空洞を、埋めてくれるのだろうか。 「いや、多分失恋しちゃいそうで……」 「見る目のない男もいたものだ」 そうだろうか、と響はぼんやり思った。 秀介は響の性癖──、つまり男しか愛せないという趣向を、分かろうと努力してくれた。 その結果、今の響は秀介と付き合っている。 ああ、そうだ。 自分達は付き合っているんだった。 「違う……失恋じゃなくて……ただの痴話喧嘩です」 響はそう応じたが、尾高は「それがどうした?」とでも言いたそうに、響に熱い視線を送ってきた。 「そんな相手とは別れた方がいい。私にしておかないか?」 「え……?」 「私なら、君を泣かせたりしない。約束しよう」 それは魅惑的な誘いだった。 少なくとも、心を折られた響にとって、新たな添え木になる人が現れたと思える台詞だった。 「考えておきます……」 気付けばそんな返事をしていた。

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