29 / 38
第29話
響は店内に足を踏み入れると、何人かの男の視線を感じながら、カウンターまで戻った。
「武宮さん、料理ありがとう。俺のだけは部屋に残してきた」
言葉少なにそう言えば、武宮は全ての事情を察したのだろう、リフトを開けて秀介が食べ残した料理を洗い場に並べる。
「ノーマルの人とうまくやるのは、難しいのかもしれないねぇ……」
「うん……そうかも……」
「響君、つらかったら家に戻っていていいんだよ」
「いや、こっちにいた方が気が楽……一人で家にいると、余計なこと考えそうで」
あの家には、まだ秀介の匂いが残っている。
だから、むしろ店にいた方が気が紛れるように思った。
「失礼、隣、いいかな?」
「え……?」
突然頭上から響いた、知らない男の声。
視線を上げれば、グレーのスーツに紫紺のネクタイを締めた、イケメンと呼んで差し支えない、見知らぬ男が立っていた。
多分、常連ではないのだろう。
「隣に座っていいかな?」
「……どうぞ」
響がそう応じると、店内にざわめきが巻き起こる。
男が響の隣に座れるはずがないと、周囲は予想していたに違いない。
「私はIT会社を経営している、尾高だ。君は?」
響は数舜、名乗ろうかどうしようかと悩んだ。
何と言っても、店で声をかけてきた男のことは、いつも門前払いをしていて、こうして相手をしたことがない。
「響」
だから、ファーストネームだけを名乗ることにした。
ただし、誰にも聞こえないよう、小さな声で自分の名を告げる。
「いい名だ。それで、君は何をそんなに思い詰めているんだ?」
尾高は遠慮なく、響の心の中に入り込んできた。
この人は、響の傷付いた心を慰めてくれるのだろうか。
ぽっかりと心の中に空いた空洞を、埋めてくれるのだろうか。
「いや、多分失恋しちゃいそうで……」
「見る目のない男もいたものだ」
そうだろうか、と響はぼんやり思った。
秀介は響の性癖──、つまり男しか愛せないという趣向を、分かろうと努力してくれた。
その結果、今の響は秀介と付き合っている。
ああ、そうだ。
自分達は付き合っているんだった。
「違う……失恋じゃなくて……ただの痴話喧嘩です」
響はそう応じたが、尾高は「それがどうした?」とでも言いたそうに、響に熱い視線を送ってきた。
「そんな相手とは別れた方がいい。私にしておかないか?」
「え……?」
「私なら、君を泣かせたりしない。約束しよう」
それは魅惑的な誘いだった。
少なくとも、心を折られた響にとって、新たな添え木になる人が現れたと思える台詞だった。
「考えておきます……」
気付けばそんな返事をしていた。
ともだちにシェアしよう!