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第31話

秀介は社屋ビルの門から出ると、空車のタクシーを拾って店へ行くことにした。 電車で行ってもいいのだが、多分タクシーの方が早く到着するだろうと考えてのことだった。 「響……」 車窓に次々と映り行く景色を見ながら、秀介は恋人の名を小さく呼んだ。 そして最後に会った時のことを、思い出す。 あの時、響は一緒に住まないかと言ってくれた。 恥ずかしそうに、秀介のご機嫌を伺うように、そうしたいという気持ちを、表情に滲ませていた。 それなのに、秀介はそんな響の心境など知ろうともせず、疲労困憊を理由に彼に八つ当たりをしてしまった。 だから、響がLINEのメッセージを読んでくれないのも、秀介以外の男と仲良くしているのも、全部秀介のせいだ。 しばらく揺られていると、どこか懐かしい景色が見られるようになった。 いつも電車で来る時に、目にするものだ。 店が近付いているのだなと考えると、それだけで心臓がドクドクうるさくなってくる。 「あ、この辺で止めてください」 秀介は店の近くに車を止めてもらうと、支払を済ませてすっかり冷えた外に出た。 腕時計に目を落とせば午後7時を少し回ったところで、あのゲイバーが開店して間もないはずだった。 幾分緊張しながら店までの距離を歩く。 そして入口に手をかけたところで、一つ大きく深呼吸してみた。 ドアを内側に開き、店内に足を踏み入れる。 「いらっしゃいませ」 武宮の出迎えが耳朶を打つが、秀介の視線はカウンターのいつもの場所に座る響と、どこか上品さを漂わせている男に釘付けになった。 多分、上品な男の方が、杉沢が言っていた人物なのだろう。 響との距離が必要以上に近く、響もそのことを咎めようとしない。 そして何より、秀介を見る武宮の目つきが、とても微妙だった。 「響」 そんな中、秀介は恋人の名を呼んだ。 客が来たことは分かっていた。 でも、尾高の話は面白くて、響は敢えて客の正体を確かめようとはしなかった。 尾高には、ここ数日の間興味深い話を聞かせてもらっていた。 荒んだ心を持て余す響にとって、癒しを与えてくれるようで、一緒にいて心地いい。 「店舗の経営はね……」 尾高は経営のスペシャリストで、響が聞きたい話をしてくれる。 だから、自然と話に引き込まれる。 「っ!?」 いきなり手首を掴まれて、痛いと片目を瞑れば、尾高が怪訝そうな顔で響の背後を見つめていた。 振り返れば、そこには秀介が立っている。 「し、秀介……?」 どうして彼がここにいるのだろう。 もう自分達は終わったはずなのだ、これ以上関わって来ないで欲しいというのが、響の本心だった。

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