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睦月

 大学時代の友人が転職したとか起業したとか、はたまた別支社の同期が過労で休職したとか、三十が見え始めるとちらほら聞くようになった。社畜以外に言いようのない社会人生活、花を咲かせるも散らすも自分次第――いや、運次第だと思う。  だからたぶん、自分は運が良い。 「魚住」  左肩から差した影を見上げると、そこには人好きのする爽やかな笑顔がある。 「データありがと」 「あ、いえ」  商品管理部の部長と言えば、その役職が理由でなく、社内で常に注目されている存在だろう。実際、今だって遠目に視線を浴びているのがわかる。 「中身、大丈夫でした?」 「だいたいね。ま、一部やり直し」  ぱさり、と手元に放られた紙束の厚みはそれなりで、睦月(むつき)は長い夜を思いやって思わずはあぁと嘆息した。ふっと頭上で失笑が弾ける。 「……すみません」 「魚住だからこれだけで済んでるよ」  そう言って笑う彼の顔には、疲れた様子など微塵もない。自分など彼の重責のほんの数パーセントで音を上げそうなのに。半井(なからい)は、ずば抜けて若く、おそろしく有能で、揺るぎなく公平な、頼れる上司だ。彼の元でなければ、自分なんてとっくに使い潰されていただろうと思う。彼と同年代で能力も拮抗していれば、こんな男、単なる目の上のたんこぶでしかなかったろうが、幸か不幸か自分には野心もなければ能力もない。その意味でも、だから、自分は運が良い。 「週明けでいいから」 「え?」 「それ」 「でも、修正だけだから……今日中にやりますよ」 「だ、め」  やんわりと、しかしきっぱりと言われて、それ以上口答えできなくなる。 「俺も帰るし。お前も帰る。で、みんなも帰ること」  フロアをぐるりと見回しながら部下たちへ告げると、こちらを見ていた彼らもめいめいに片付けを始める。 「せっかくの花金なんだから、とっとと帰ってデートでもしなさい」 「部長、それ死語ですよ」 「そんなこと言って、自分がデートなんでしょ?」 「おしゃれなバーとかエスコートしそうですよねえ」  空気の緩んだフロアに、冗談交じりの詮索が飛ぶ。  その有能さだけでなく、人格だけでなく、外見も他人を惹きつけてやまない人物だ。おまけに独身なのだから、熱い視線も詮索も、さもありなん。睦月はもう一度、今度は内心で小さくため息をついた。  ガード下の路肩でハザードランプを灯す車に乗り込むと、運転席から乱暴なくらい力強く引き寄せられ、唇を奪われる。 「んむ……」  きつく唇を吸い、ねっとりと舌を絡め、離れ際に渡った糸をちゅっと短いキスで切る。ぎらつく瞳と白い歯が、暗がりの中浮かび上がった。 「今日は泊まっていくだろ?」 「……おしゃれなバーにエスコートしてくれるんじゃないの?」 「なんだよ、意地悪だな」  わざとらしく拗ねた声音で言って睦月の頬を撫でると、その手をハンドルにかける。  車がゆっくりと動き出す。シートに背中を預け、キスひとつで火の点いた身体を持て余しながら、睦月はうっとりと半井の横顔を見つめていた。  信号待ちのたびにキスを仕掛けられ、玄関にたどり着く頃には息も絶え絶えになっていた。  抱きかかえられるように寝室へ入り、今朝起きたままろくに整えていない様子が妙に生々しいベッドへもつれ込む。 「睦月」  今夜、既に何度呼ばれたろう。  睦月を呼んだ唇で頬に触れ、耳朶を食み、胸を探る。生地越しにじゅわっと痺れる感覚に、頭を振って悶えた。 「……んっ、待って」 「どうして?」 「……今日……出ちゃう、かも」 「そっか」  それだけで彼は正確に理解し、嬉しそうに笑った。  恭しい手つきで睦月のネクタイを解き、一つずつボタンを外す。はだけた胸元を半井の浅い息が撫で、それだけで、ぷっくりと勃つ感覚がある。大きな手で両胸をゆっくりと中心へ向かって揉みしだかれ、知らず吐息が漏れた。 「あ……なからい、さん……」 「こら、今は名前で呼んで」  叱るように指先で弾かれ、じーん……奥まで響く。 「みきとさん、痛い……よ……」 「気持ちいい、だろ?……睦月の乳首、ほんと、きれいだよな」  あけすけな言い方。指の腹でくにゃりと潰され、左右にくすぐられる。 「俺がこんなに一生懸命弄ってるのにね」 「……やっ、もぉ、そんなの」  言葉どおり献身的なほど丹念な愛撫。絶えず与えられる痛みに近い快感に、今にも弾けてしまいそうだ。睦月は悪戯な恋人の手を抑え、硬く勃起した自らの乳首を摘み上げた。 「んっ……」  さらにぎゅっと引っ張れば、白く濁った液体が滲む。もっと強く引っ張れば、ぴゅっと噴き出し、垂れる。 「睦月……」 「出た……よ……はい、どうぞ」  ごきゅ。大きく半井の喉が鳴る音が聞こえる。 「幹人さんの好きな……俺の……」  言い淀んでそろりと目を上げると、恍惚の表情の恋人が舌なめずりをしていた。 「うん。俺の大好きな……睦月のおっぱい」  呂律も甘く呟くと、半井は睦月の浅い谷間に鼻筋を擦りつけたあと、右胸に吸いついた。  ちゅう、と、音を立てて搾り、こくり、飲み下す。 「あ……ね……おいし?」 「ん……」  鼻息で返事をして、また強く吸う。  最初に症状が現れたのは、高校生の時だった。知らないうちに制服のシャツに染みていて、半狂乱になったっけ。ネットで検索すれば死に至る病気にばかりヒットして、子供ながら真剣に悩んだ。勇気を振り絞ってかかった病院の診察室で、男なのに母乳が出るようになってしまったと半泣きで訴えた。精密検査もしたし、レントゲンも撮った。結論から言えば病気ではなく体質らしく、以来、三十を目前にした今でも母乳の出る身体と付き合い続けている。もちろん厳密には母乳などではなく、単なる分泌液だけど。  誰かの目に触れるのが恐ろしく、次第にスポーツからは遠のいた。社会人になってひっそりジムに通うのが数少ないストレス解消法だったが、鍛えたところで何かが変わるわけもない。ひた隠しにしてきたこの身体を、彼はとても気に入ってくれた。もしかしてこの体質でなかったら、一度きりで飽きられていたかもしれないとさえ思う。腹を満たすことも喉を潤すこともできない、求められればいつでも与えられるわけでもない、何の役にも立たない特異体質の副産物。 「あっ……や……噛んじゃ、やだ……」  不意の鋭い感触に、腰が跳ねる。謝罪のつもりだろうか、唇に含まれて舌先で転がされ、 「ぅん……」  鼻から喘ぎ声が抜ける。それからまた、きつく吸われて。 「ん……あ……いっぱい飲んで……」  夢中で乳を吸う恋人の頭を、睦月はたまらずに抱きしめた。  今はすっかり乱れている、白髪一つない黒々とした彼の髪に鼻先を埋める。染みついた電子煙草独特の甘く焦げ付いたにおいを嗅ぎながら、触れられずに泣き濡れているもう片方の胸を自分で弄る。それに気づいた彼が左胸に吸いつき、愛撫とも嗜好とも儀式ともつかない時間は、いつも永遠のように長く感じる。  そうするうちに下肢が張りつめ、硬くなったそこを彼へ擦りつけて乞う。 「みきとさん……おれ……」 「……ごめん、睦月、苦しかったな」  まるで赤ん坊のように睦月の胸を吸っていた彼だけど。涎と乳に濡れた唇を手の甲で拭い、ベルトを外せば、身体は雄の獣だ。中から掴み出した抜き身の彼は、体格とよく似たスレンダーさで、大きく膨らんでいて、笠を開いてきつく反り返っている。 「二週間ぶりの睦月だ」 「……十五日です」  待ち望んだ姿に、声が潤んでしまう。 「若いなあ」  潤んでいるのが声だけでないことは、裸の睦月を見下ろす彼が一番よくわかるだろう。  十五日ぶりに、半井の指にローションを塗り込められる。 「あ……ふ……」  ゆっくり抜き差しし、均すように円を描く、その動きだけでひどく感じてしまう。くちゅ…くちゅ…こんな音がここで鳴らされるのが恥ずかしいけれど、その先を待ち望んでまたとろりと先端から溢れる。 「睦月、ここも、前も、ひくひくしてるよ」 「だって……」  彼の指ではもう足りない。知らず涙が溢れ、くすん、鼻が鳴る。 「幹人さん……もぉ……ほしい……」 「ちゃんと広げないと、睦月が辛いだろ」 「へいき……ねえ、はやく」  指が二本に増えて、中でゆっくり開かれる。 「ゃだ……はやく……」  さんざん性急なキスを、愛撫をしかけておきながら、今になって紳士なのだから憎らしい。 「ねえ、ほしいよ、みきとさんのが、ほしい……」  予感だけできゅうきゅうと奥が締まる。嗚咽混じりに何度も懇願すると、やがて、ぬるりと硬い半井の先端があてがわれる。 「あ……ね……きて……」 「睦月」  大きな手のひらで睦月の髪を撫で、額に唇を落とす。  きり、と、入口を押し開けて半井が入ってくる。 「んっ……」  どんなに丁寧に均したって、彼の硬く膨らんだものを招き入れる時の、火傷しそうに熱くてちぎれそうにきつい感覚はなくならない。そしてそれは、睦月にとって悦びでしかない。 「睦月……へいき?」 「へいき……きて……幹人さん……」  精悍な頬を撫で、しなやかな背中を抱く。半井の腰がうごめき、深く一突きにされた。 「あーっ」  腹の奥に響いた快感が、背筋を駆けて脳に火花を散らす。繰り返しぐずぐずと中が粘ついた音を立て、下腹と尻たぶがぶつかる音がリズミカルに弾ける。 「あっ、あっ、あんっ、あっ、あぅ」  睦月はそれに合わせて、すっかり言語を忘れてただ喚くだけだった。  繰り返し愛された中の、トルネードの去ったあとのような感覚を形容する言葉は見つからない。かすかに鼻をつく、というには濃すぎる、汗と精液のにおい。  半井の腕の中にぐったりと身体を預けて酸素を求めていると、ヴーッ、ヴーッ、床に散らばった衣服の下からスマホの短いバイブ音が二度聞こえる。 「どっち……?」 「俺かも……」 「いいよ、寝てて」  睦月の頭を撫でてから大儀そうにベッドを降りた半井が、スマホを探し出して放ってくれる。届いたばかりのメッセージを開き、ちらりと彼を見ると、 「帰る、なんて言うなよ?」  再びベッドに乗り上げてほとんど睦月を羽交い絞めに抱いた。 「違うよ。弟たちからなんだけど……」 「たち?」 「うん、二人いるから」 「へえ。それで」 「明日……あ、今日。誕生日なんです」 「誰の? まさか睦月の?」 「うん」 「言いなさい、そういうことはもっと早く――いや、聞かない俺が悪い。しまったなあ、何も用意してないぞ」 「いいよ、そんなの」 「そんなの、なんて言うな。俺がしたいんだから」  母が早くに亡くなって以来、兄弟三人で助け合ってきた。二人の弟はいくつになっても可愛いままだが、ずっと、頼れる兄が欲しいとも思っていた。  半井は、半分そういう存在だと思う。強引で、頼もしくて、傍にいると安心する。あと半分は――。  ちゅむ、と、胸を吸われる。腫れぼったく熱を持つそこは、ひりひり痛むばかりだ。 「……ねえ、痛いってば」 「ん」 「もう。出ないよ」 「んー」  甘えた鼻声でそれでも唇を離さない年上の恋人を、睦月は愛おしい気持ちでぎゅっと抱きしめた。 「……かわいい」

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