5 / 11
侑紀2
「伊達?」
開口一番そう尋ねると、彼は面食らったように眼鏡の奥の目を瞬いた。
「――ああ、いや、本物」
「目ぇ、悪かったんだ」
「うん。両方0.1ないんだ」
細いメタル素材のウェリントン眼鏡を、指で押し上げて葉が笑う。その柔らかい笑顔から目を反らし、侑紀はすっかり指定席となった試着用のソファへ腰かけた。
床に落ちる絞ったライトの元で、組んだ脚をぶらぶらと遊ばせる侑紀を嗜めるでも構うでもなく、葉は淡々とディスプレイ棚の商品を手入れしていく。ここは表通りに面した紳士靴の専門店だが、今はもうショーウィンドウにブラインドが下り、店内では店員が一人閉店作業をしているだけだ。
白シャツにオートミール色のカーディガンを羽織り、下は濃い色のデニム。無造作に片側へかき上げた油気のない髪、すっきりした目鼻立ち、穏やかな物腰、低すぎず高すぎない中低域の声――全体に飾り気はないが野暮ったさもなく、なんと言うかつまり、彼はいわゆる好男子というやつだ。
ふふ、と、葉が背中を揺らして笑う。
「……なに、なんだよ」
取りとめのない物思いが伝わってしまったような気がして、狼狽えた声が出たかもしれない。マスクをしてきてよかった。
「いや。社長にバレたら怒られるだろうなぁ、と思って」
彼が笑い含みに指摘したのは、部外者が関係者の手引きによって閉店後の店内に居座っている、まさに今の状況そのものだ。
「……外にいる」
いつも招き入れてくれるから、疑問にも思わなかった。非常識に気づかされて立ち上がる侑紀の腕を、葉は彼らしからぬ乱暴さで掴んだ。
「ちょ、違うって」
焦っているのだろう。
「そうじゃなくて。俺、こんなことしちゃうタイプだったんだなあって、思ってさ……」
そうして最後、はにかんだように言いよどむから、知らずかっと目の奥が熱くなる。
「ごめん」
侑紀は葉の腕を振りほどき、どさり、再びソファに身体を沈めた。
「べつに。ねー、腹減ったんだけど」
「あ、うん。飯行こっか。もう少しだけ待てる?」
「ん」
「連れてきたい店があるんだ。全然、高いとこじゃないんだけど」
「どんなとこ?」
「和食、平気?」
「和食ぅ? おっさんくさい」
「まあまあ、うまいんだって。ひとり暮らしが長いからか、年々、素朴な和食が恋しくなってるんだよね。自炊ったって和食はハードル高いし」
「葉さん、自炊するんだ」
「適当なのばっかだよ。侑紀くんは? 料理するの?」
「まあね」
「へえ」
あんまり意外な顔をされて、怒るより笑ってしまう。
「うち、母親早くに死んでるからさ」
「ああ……そっか、ごめん」
「なにそれ。二十年近く前の話だぜ?」
魚住侑紀という商品には、亡母の存在が少なからず付加価値としてある。よくいる「伝説の」女優。母は宵を生んですぐに死んだ。侑紀も睦月も小学生だった。父はその後再婚することもなく独身で、しかもほとんど家におらず、歴代の家政婦はことごとく侑紀と相性が悪く、いつか人が寄りつかなくなった。嫌でも家事能力が身に着くというものだ。
「じゃあ、家庭料理じゃないほうがいいか。侑紀くんの好きなのにしよう」
靴の手入れを再開しながらさらりと言う葉の横顔に、ぼそり、呟く。
「……葉さんの好きなのでいい」
知らないだろうけど。彼といると、心臓があったかくなったり高鳴ったり時々ひどくちくちくしたり、とても忙しい。
葉の案内してくれたのは、彼の言うとおり、洒落っ気の少ない和風料理屋だった。
小さな店内はほとんど満席で、カウンターの隅に並んで遅い晩飯にありついた。突き出しの青菜のお浸し、油を吸ってよく揚がった豚カツ、帆立缶の入った出汁巻き、ふろふき大根、小町麩の味噌汁。それに一本の徳利にお猪口を二つつけて、久保田の千寿を。しみじみ胃の温まるメニューだった。
少し火照った顔を夜風で冷ましながら歩き、途中、空車のサインの点いたタクシーを認めて葉が手を挙げる。
「侑紀くん、どっち方面?」
まるで、ここで行き先が分かれたらさよならのような言い方。こういう時、だから、込み上げる苛立ちが身体を内側からちくちくと刺す。
「……あんたと一緒に行く」
「え?」
「持ち帰られてやるよ、イクジナシ」
こんな、吐き捨てるように言いたいわけじゃなかったけど。
やがて停まったタクシーの後部座席に侑紀が無言で乗り込むと、彼もまた、少し遅れて無言で乗り込んだ。
葉の横顔と、その向こうで流れるチープなカラオケ映像みたいな夜景をぼんやりと横目で眺めている。
「侑紀くん?」
「ん」
ごまかすように俯くと、穏やかな微笑が空気に乗って伝わってくる。
「眠い?」
「ん……」
葉の肩にしなだれかかり、コートの生地に頬を擦りつける。
無造作に腿の上に置かれた彼の手を指でつつくと、温かいその手で握り返され、侑紀はそのまま身体を預けた。彼の乾いた指先が、ゆっくり手の甲を撫でる。
葉は最初から優しかった。侑紀のような態度の客を内心でも見下すことをしなかった。確かに彼は接客のプロだが、自分は自分で他人の本音と建前には敏感だ。だから葉は、本当に優しい。
ただそれだけのことで好きになってしまったのか、答えはイエスでありノーでもある。
葉は、どこか睦月に似ている。いつもそうだ。どうしてなのかわからない、わかりたくもない。それでも他人にときめくたび、今回こそはと勝手に期待して、いつも失望していた。そのうちに何もかもが面倒になった。そんな自分が、あの一足と同時に彼に出会って以来、少しずつ、彼のことばかり考えるようになっていたのだ。年齢は? 下の名前は? 出身はどこ? ずっとこの店に? 好きな食べ物はなに? ――ねえ、どんなセックスするの?
抑えきれなかった。どうにでもなれと思った。
そうして今、彼の罪悪感につけ込んで隣にいる。
夢ならそれでいいし、現実だってどうせいつか醒めるのだから、迷うことはない。
「……ねえ」
葉の耳へ息を送る。
「ん?」
くすぐったそうに肩を揺らして、ひそめるように囁き返す葉の手に、小さな機械を握らせる。
「……このまま、居眠りさせる気?」
コートのポケットから取り出したのは、手のひらですっぽり握り込めるサイズの、プラスチック製のごく小さな楕円だ。ボタンが一つだけついている、彼もよく知った物。
「ゆ、侑紀くん」
狼狽えた声が上がる。
「……いつから?」
「店出る前。トイレで」
「なんで」
「変なこと聞くね。好きだからに決まってるデショ」
手の中に収めたリモコンを、彼はしばらく――のろのろと渋滞を進むタクシーが赤信号で停まるまで、ただじっと見ていた。じっと見ているだけだった。
「……イクジナシ」
優しい人。憎まれ口の裏で呟く。
はあ、白けたため息が出る。彼にもたれるのを止めて反対の窓へ顔を反らした時、
「……んっ」
身体の奥に潜ませた玩具が低く振動を始めた。
「えっ、うそ、葉さ……んっ、ん……っ」
マスクの内側で鼻声が漏れ、唇が歪む。葉がボタンを一度押すたびに、一段階ずつ震えが強くなっていく。突き当たりの一番悦いところへ響いてしまいそうで、たまらず腿をぎゅっと閉じる。そうするとにゅるりとした感覚とともに少し奥へ進むのがわかり、
「はっ……」
侑紀はたまらずにシートの上で身悶えた。
「好き、なんでしょ?」
「……う……んっ、すきぃ」
ふー、ふー、ふー、熱く湿った息がこもる。
再び葉にしがみつくようにもたれかかり、彼のコートの裾へ手を潜らせる。
ゆるく膨らんだ股間のステッチを何度も指でなぞり、ゆっくりファスナーを下ろす。下着はむっと湿り気を帯びていて、中へ手を入れると、やや硬く張りつめた先端がしっとりと濡れている。親指でそこを擦るとまた染みだし、
「ん……」
思わず喘いでしまったのだろう口元を慌てて押さえる仕草が可愛かった。
ボリュームを絞ったラジオの音と、時折割り込む無線機の声に、こらえきれない息が混じって聞こえる。ルームミラー越しに、自分たちはどう見えているのだろう。友人、同僚、兄弟、それとも恋人。
やがて葉のマンションへ着いた頃、侑紀はもうまともに喋れなかった。
ヴヴヴヴヴ……激しく動くローターに膝を震わせながら、葉に抱きかかえられるようにタクシーを降りる。
エレベーターの扉が閉まった瞬間、気が抜けて卒倒しそうになる。
「侑紀くん、へいき?」
「よう……さん……もぉ……いくぅ……」
「もうちょっとだから、頑張って」
心配そうに抱きとめてくれるけど、彼は一度もスイッチをオフにしてくれない。その首筋に伝った汗が唇に染みたのに気づいた瞬間、とうとう弾けた。
「あ……いく……いってる…………っ」
身体が、声が痙攣し、快感が駆け巡る。
チン。吹き抜けた夜風にさえ、甘く達してしまう。乱暴なダンスみたいにもつれ合い、引きずられながら廊下を抜けて、スチールのドアの向こうに飛び込む。部屋の様子を見る余裕はなかった。常夜灯も灯らない、開けっ放しのカーテンの向こうの外灯だけが頼りの薄暗いリビングの奥、やはり開けっ放しの引き戸の先によじれた布団の乗っかるベッドがある。コートを脱ぎ捨て、ニットを抜き去り、押し倒されたスプリングの硬いベッドで彼のにおいに包まれてまた感じる。お互いのパンツを引きずり下ろして剥き出しにすると、
「……侑紀くん、すごい」
葉は先走りでびしょびしょに濡れた侑紀を優しく撫でた。腹まで反り返った自らのそれを宥めるように扱くと、ローターの紐に指をかけ、ゆっくりと引く。
「ぁん……あっ」
「……いいの?」
「ゃだっ……はやくっ……またいっちゃう、ようさん、おれ、ようさんのでいくからぁ……」
最後の数ミリを潜らせたままぶるぶると刺激して侑紀を喘がせると、ちゅむ、と音を立てて抜いたローターに、あろうことか彼はキスをした。
ぶわ、と、全身が燃え上がる。腹の下がうずき、天井を指して勃ち上がる。
葉は汗ばんだ侑紀の額を撫で、片耳に残ったマスクのゴムを外す。緩んだ口の端から垂れた涎を熱い舌先が舐めとり、唇が合わさった。眼鏡が潰れてひしゃげそうなくらい、ぢゅううっ……きつく吸って、離れる。
「……じゅんばん……ぎゃく……」
切れ切れに抗議する侑紀の唇を、
「はは、そうだよね、ごめん」
忍び笑いの葉がまた塞ぐ。
やがて、ようやく、ぱくぱくと彼を求める場所に熱い杭が打ち込まれた。
ぎゅうぎゅうと押し分ける彼を招くと、ぬるりと一息に奥へ届く。
「あぁーー……」
「侑紀くん、だめ、締めないでっ……」
「むり……ようさん、おっきぃ……」
腹の中いっぱいに葉を咥えている。どくどくと脈打っていて、馬鹿みたいに熱い。
ずる、と後退した彼が、ばちん、また最奥まで穿つ。
「んんーーっ」
侑紀の脚を抱え、葉は激しく腰を振った。尻たぶで弾ける彼の下腹が、強張った茂みの感触が、はーっ、はーっ、唸るような彼の息遣いが、侑紀を追い立てる。
「ひ……んっ……」
「ゆうき、くんっ」
もがいた手を捉え、指先にキスをし、甘く噛むのに感じてぎゅっと中が締まると、うっと葉が呻いて膨らむ。
「だめ、ごめっ……とまんない……」
言葉どおりピストンが逸り、しなやかな彼が肉壁の中で暴れる。
「――あっ、そこっ」
「んっ、ここ?」
「そこっ、んっ、おくっ、いいっ……」
「おれもっ……いいっ……」
ぴったりと腰を押しつけて、彼の一番悦いところで、侑紀の一番悦いところを強く擦る。
「あっ、あっ、あっ、あっ、いくっ、いくっ」
電流が走る。侑紀は葉に揺さぶられながら、どくどくと精子を吐き出した。
深酒をして眠り込んだ日のように、早朝、驚くくらい気持ち良く目が覚めた。
傍らには深い寝息を立てて眠る葉がいる。
鈍く重い身体を起こし、穏やかなラインの頬を撫で、ぼうっと辺りを見回す。見知らぬ天井のパネルや壁際の飾り棚に、ああ、彼の部屋へ来たのだとやっと実感する。
ベッドを下りると、冷たい朝の空気が素肌を刺すようで、慌ててコートにくるまる。ろくに拭わないまま眠りこけたせいですっかり前がごわつき、今も彼を呑み込んでいる気のする後ろから知らず残滓が垂れて内心で呻く。からからに乾いて痛む喉も、涙と涎でべとついた顔も、たぶん現実。
「……おはよ」
背中で聞いたくぐもった声は、ひどくひしゃげていた。
振り返ると、手枕の葉が寝ぼけ眼を億劫そうに何度か瞬き、くすりと笑う。
「……なに」
「いや。きれいだなぁ、と思って」
自分をこんなにぐちゃぐちゃにしておいて、よく言うと思う。
侑紀はコートの前をかき寄せて、ふん、と明後日へ呟いた。
「……ねえ。コーヒー淹れてよ」
ともだちにシェアしよう!