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宵2-2

 扉の脇に立ったまま、森は動かない。  思わず振った手の行き場がなくなり、セーターの袖の中に引っ込める。はしゃいだ自分がなんだか恥ずかしくなって、宵はウィッグの毛先で顔を隠した。 「…………へん、かな」 「や、ごめん、びっくりして……似合ってるけど」  森の言葉に周囲が沸く。 「でしょー」 「だよね」 「やばいよね」  同意を得て嬉しそうに笑うのは、裏方という名の主役たちだ。宵のクラスは、女子の強い希望で女装喫茶をやることになっている。一時間以上かけて、借りる制服のサイズを合わせ、何重にもメイクをされて、ウィッグを被らされて――さんざん遊ばれていたというわけ。 「ね、雪ヶ谷くんもおいでよ」  さり気なくも強引に招かれた森は、宵の前に立って頭からつま先までをじっと観察してくる。やっぱり無言だから、空気にさらされた膝がもじもじとくすぐったくなって、スカートの裾をたまらず引っ張った。 「……そんな見ないでよ」 「なんかスカート短くない?」 「んー、そうかな」  めくるふりをすると、ぺち、と手を叩かれてたしなめられる。 「いったぁ」 「嘘つけ」 「嘘じゃないもん。森、今から部活?」 「うん」 「帰り、遅い?」 「なんで?」 「一緒に帰ろ?」 「じゃ、早めに終わらせる」  森はあっさり頷いて、ほんの少し唇で笑った。  今、頭一つ分背の高い彼を見上げているのは自分だけではない。そのことに気づいていないのはきっと本人だけで、気づいてわざと見せつけるようなことをしている自分は意地が悪いと思う。森に憧れている女子は多い。クールな中距離走者はどこか近寄りがたい雰囲気で、こんな時でもないと話しかけるチャンスがないのに。 「あとでな」  と、宵の頭を軽く撫でて、森は教室を出て行った。  部活を終えた森からのメッセージがスマホを震わせる。エナメルのショルダーバッグを担いだ、陸上部ジャージの良く似合う姿。待ち合わせの正門に先に立っていた彼は、宵を見て呆れたように眉を下げた。 「まだそのかっこしてんのかよ」 「だって、みんなかわいいって言ってくれるし」 「……嫌じゃないの?」 「なにが?」 「かわいいとかさ、言われるの」 「嫌じゃないよ。なんで?」  睦月のようにしなやかでも侑紀のように美しくもないけど、自分の見た目はけっこう取り柄だと思う。得することが多いし、どんなことだって褒められるのは嬉しい。 「森は嫌?」  彼の歯切れの悪さが、ずっと自分を不安にさせている。この数時間で、ウィッグの長い髪を弄るのが癖になった。そう言えば女の子って、よくこういう仕草をしているな。 「……べつに、そういうわけじゃないけど」  ちらりと見上げた森は、横断歩道の先の赤信号をまっすぐ見ている。冷たいくらいシャープな印象の横顔へ、宵は殊更明るく言った。 「ねえ、今の俺、森の彼女みたいに見えるかな?」  森はやはり、こちらを見てくれなかった。  信号が青に変わる。  空回りの落胆のせいで、歩き出そうとする脚が鉛のように重かった。 「こうしたほうが、もっと見えるんじゃない」  はっと顔を上げる。右手を包む感触は、森の手だ。 「……うん」  くい、と引っ張ると、もっと強く引っ張り返され、そのまま手を繋いで横断歩道を渡る。手のひらからじわりと熱いくらいの体温が伝わってきて、でも、それは相手にとっても同じだろう。 「ねえ、森」 「なに?」 「俺ね、今日のために剃ったんだよ、腕とか脚とか。見る?」 「乗り気かよ」  せっかく唆しているのに、さっきから澄ました返事ばかり。なんだか不公平だ。もっと、共犯になって、二人でドキドキしたいのに。宵は繋いだ彼の手を、臍の下へ導いた。 「おい……」  やっと狼狽えた声を上げた森に構わず、スカートの上からゆっくり弄る。 「ここも…………見る?」  沈む寸前の強烈な夕日を背にした森は、逆光の中で瞳をきらりと輝かせたように見えた。  いつもと違う路地へ入り、少し歩くと小さな公園がある。夕暮れ時とあって人気はなく、ずいぶんひっそりとしていた。ベンチの後ろに佇むようにある大きな桜の木は、この季節はもうくすんだ灰色一色だ。その桜の木のさらに奥、防災倉庫の裏に二人で隠れる。 「制服、汚れる」  肩にかけられたジャージから、嗅ぎ慣れた柔軟剤と制汗剤の香りがして、ほっと安心するのと同時に胸が高鳴る。森は宵を壁に押しつけると、慎重に鼻先を近づけてきた。 「宵、なんか甘いにおいする」 「……リップかな。塗った時いいにおいしたから」  すん、と鼻で吸い込んで、 「ほんとだ」  小さく笑うと、その唇と唇が触れ合った。 「ん……」  ちゅ、と啄んで、じっとり重ねる。森とのキスは、ぼうっと頭が痺れ、口の端が緩むくらい気持ちいい。リップのせいだろうか、離れ際、まるで駄々をこねるみたいに表面がくっついてしまい、舌先でちろりと舐めてそれを剥がすのがなんだかいやらしかった。  伏せていた目を上げると、森の強い視線に捕らえられる。  宵はスカートの中に手を入れて、下着を下ろした。  腿でいったん手を止め、少しまごついて膝まで下ろす。それから、ゆっくりと前をめくり上げ、裸の下半身を彼に捧げた。 「……はい」  じっと見つめられ、寒々しい空気にさらされているのに、芯から熱くなっていく。知らず、腿を擦り合わせてそわそわと耐える。 「…………ね、触る?」 「……いいの?」 「いいよ」  森の指先が、臍下を羽根のように軽く撫でた。 「んっ、くすぐったいよ……」 「ほんと、つるつるだな」  昨夜、風呂場で剃り落とした場所には、感触を遮るものがない。最初は脛と腕だけのつもりだったのだけど、出来心を抑えることができなかった――いや、下心、かも。  おずおずとしていた森の手つきが、次第に、手のひら全体で撫でる動きに変わる。薄い皮膚を通して、くすぐったいような、もっと危なくてもっと悦いような、味わったことのない感覚が奥へ響いてくる。スカートの裾を握る手に、固く力が入る。 「なあ、ここの毛ないって、どんな気分なの?」 「……すーすーする……あと…………興奮する」 「お前ってほんと――――かわいい」  一気に膨らんでしまったものを、ごまかすことなんてできない。頬を歪めてこらえるように笑った森の、ジャージの前もつんと持ち上がっていた。 「ね、森の、触っていい?」 「だめだって」 「なんで?」 「外だぞ」 「けど、こんななってる」  方位磁針みたいに、お互いを指して惹かれ合っているのに。 「お前、その制服借りてるんだろ?」 「でも……がまんするの?」 「しょうがないだろ」  屈んだ森が、宵の膝に絡まった下着を強引に上げて、膨らんだものを押し込めるように戻す。それからぎゅうっと宵を抱きしめるのは、たぶん耐えるためなのだと思う。ふーっ、ふーっ、と荒い息の中で、自分も同じように耐えているから。  やがて、森はウィッグの髪を梳くように撫でてから、宵の肩を引き剥がした。  公園をあとにし、お互いほとんど話もしないまま、歩道橋で別れる。 「気をつけろよ」 「うん……また明日ね」  離れがたくて思わず握った手を、ぎゅっと強く握り返してくれて。手の甲を指であやすように撫でて、じゃあ、と森の背中は遠ざかって行った。  兄二人は社会人だから、帰宅はたいてい自分が一番早い。  鍵を開けて入った玄関には誰の靴もなく、しんと静まり返った階段を駆け上がる。バタンと乱暴に飛び込んだ部屋の、壁際の姿見に映った自分の姿を見て、森のジャージを羽織ったままだと今さら気づく。  ファンデーションとかアイシャドウとかチークとか、たくさん塗り重ねた化粧でも隠せないくらい、みっともなく火照った自分の顔。ホックを外し、スカートを床に落とす。染みた下着から掴み出したものは先端がもう滴っていて、軽く擦り上げるだけで震えるくらい喜ぶ。ベッドに縋りつき、羽織ったジャージの襟を強く嗅ぎながら、宵は持て余し続けた熱を慰めた。 「……森……しん……」  彼の名前を口にするたび、じん、と感じる。くちゅくちゅと粘ついた音と、自分の鼻息と、彼のにおいが、身体の中で反響して増幅する。 「んっ……んーっ……っ……」  腰が跳ねる。手の中に広がる生温かいどろどろと、鼻をかすめる精液のにおい。あっけなく果てたあとの虚しさに包まれながら、宵はただ荒く呼吸を繰り返すだけだった。  どれくらい呆然としていただろうか。  真っ暗な部屋の中でのろのろと着替えをし、ウィッグとその下のネットを外して、クラスメイトにもらったメイク落としシートで顔を拭く。何も手に着かなくて、再びベッドにへたり込んで考えるのは、森のことばかりだ。いつも宵に優しくて、常識人で、それが宵をこんなに追い詰めていることなんてきっと全然気づかないほどに鈍感なやつ。  カタン、階下で音がする。  のろのろと重い身体を起こす。階段を下りて出迎えると、屈んで靴を脱いでいた睦月が顔を上げた。 「なんだ、いたのか。電気も点けないで……寝てたな?」  宵のぼさぼさ頭を優しく撫でて、にこりと笑う。 「遅くなってごめんな。今作るから、先に風呂入っといで」  今日の夕食当番の睦月は、脇にスーパーの大きな袋を二つ置いている。 「宵……? どうした?」  睦月の声が気遣わしげに潜められる。ひっく、としゃくり上げた自分に驚いて、やっと、泣いていることに気づいた。 「むっちゃん……俺……」 「ん?」  それ以上言葉にならず、睦月に抱きつく。兄は宵をしっかりと抱き返し、とん、とん、背中を宥めてくれた。 「宵?」 「おれ……こわい……」  今、宵を包んでいるのは、世界で一番安心する兄の温もりだ。 「どこか痛いのか?」 「ううん……」 「学校で何かあった?」 「ううん……へいき」 「じゃあ、怖い夢でも見た?」 「……そんなに子供じゃないよ」 「そ?」  とん、とん、心地よいリズムの中で、睦月の胸に顔を押しつけて、くすんと鼻を啜る。  森に出会って、森のことを好きになって、森も自分のことを好きだと知って。頭の中には森ばかりがいて、身体がどんどん変になって、何も我慢できなくなってしまった。彼の前でおねしょした時も、公園の物陰で下を晒した今日も、ひどく気持ちよかった。このまま、いったい自分はどうなってしまうんだろう。 「大丈夫だよ、宵」  穏やかな睦月の声が、手のひらが、宵の気をゆっくり鎮める。 「……むっちゃん、だいすき」  それは、おはようやおやすみのように毎日当たり前に繰り返す、大切な言葉。涙声で呟くだけで、恐ろしい気持ちが少し薄れる気がする。 「俺もだよ。ほら、飯作るから、風呂入るか課題やるか、先にどっちかしといで」 「お風呂にする……ねえ、今日は何?」 「豚挽きで麻婆豆腐か、合挽きでハンバーグ。どっちがいい?」 「ハンバーグ!」 「誰が子供じゃないって?」 「子供じゃなくたって好きだよ。ゆーちゃんだって好きだもん、むっちゃんのハンバーグ」  もう一度ぎゅっと抱きついて、睦月から離れる。  背中でくすくすと笑う声がするけど、振り向かずにリビングに入る。電気を点けて、風呂の給湯器のスイッチを入れて、そうだ、今日は侑紀の出る番組が流れる日だから忘れないように。その頃には侑紀も帰ってくるだろうから、きっと三人でテレビを見ながらあーだこーだ言うことになる。  寝る前には、森にメッセージを送ろう。  ジャージを借りっぱなしだったことを謝って、文化祭は一緒に回る約束をするのだ。考えるだけで、やっぱりドキドキして、やっぱり少し怖い。  森が好き。  睦月とも、侑紀とも違う。  恋ってたぶん、こういうことなんだ。  きゅん、と甘く痛んだ心臓を押さえて、宵は大きく深呼吸をした。

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