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睦月2-1
コートの袖に片腕を通したところで、開きっぱなしの鞄から飛び出している充電器のコードに気づいて、無理やり押し込む。すっかり遅くなってしまったと、小走りに廊下を進んでいた。
喫煙ブースに人影があるのは見えていたが、自分には用のない場所だ。足早に通り過ぎようとした時、コンコン、軽いノック音に引き留められる。振り返ると、片手に紙コップ、もう片方の手に電子煙草の上司が、黒いホルダーを挟んだ指をちょいちょいと動かして微笑んでいた。
ガチャリ、分厚いガラス扉が開き、半井が顔を出す。
電子煙草独特の重い香りと、給茶機のコーヒーの香りは、どちらも自分にとって嗅ぎ慣れたものだ。
「魚住、帰り?」
「はい」
「もうちょっと待って、晩飯付き合わない?」
待ってろと命令するわけでも、奢ってやると恩に着せるわけでもない、こういう言い方もきっと、この人の好かれる理由だと思う。いや、そんな他人事みたいな次元ではなく、自分が彼を好きな理由の一つだ。それでも今は、謝罪とほんの少しの落胆を込めて曖昧に微笑み返すことしかできない。せっかく誘ってもらえたのについてない、だなんて思ってしまうのがひどく身勝手だってことくらい、わかっているけれど。
「すみません、今日は」
「あれ、先約?」
「いえ。夕食当番で」
「夕食当番?」
軽く目を見開いて、おうむ返しに半井が言う。それから、以前に話した睦月の家族構成を思い出したのだろう、ほろりと今度は片頬で笑った。
「弟さん小さいんだっけ」
「一人がまだ高校生で」
「そっか、そりゃ早く帰らないとだな。今日の晩飯は何?」
「うーん」
長年主夫まがいのことをしていると、しっかり献立を決めるより、その日スーパーに寄ってから考えることの方が多い。所帯じみた真相をごまかしたかったのが半分、もう半分は純粋な興味だった。
「……半井さん、何食べたいですか?」
彼の唇から微笑が消える。涼しげな眉目が、ひたと睦月を見つめた。
「……なんか」
「はい?」
「新婚みたいだな」
あまりに真面目くさって言うから、思わず頷きそうになってしまったじゃないか。この、有能で人望厚い若き管理職の男と、確かに自分は上司と部下というだけの関係ではない。ただ日頃社内では「そういう」そぶりを見せないだけに、一瞬頭が真っ白になり、そのあと抑えようもなく頬が熱くなる。
「……なに言って」
「そうだ。今度作ってよ」
「もう、冗談」
「本気。あとでメールする。じゃ、お疲れ」
軽く肩を叩かれてよろめいたのが、三日前のことだった。
会議が長引いている半井へ、先に買い物をしておくとメッセージを送って会社を出る。
彼からのリクエストはまさかのカレーで、普段は買わないスパイスたっぷりの本格カレールーのパッケージをためつすがめつしていたが、結局は使い慣れたいつものルーの、甘口ではなく辛口を選んだ。付け合わせの材料も適当に買い、「まだ終わらない」「ごめん」と数分おきに連投する彼にスタンプを返して、マンションへ向かった。
実用というよりお守りに等しかった合鍵を、初めてこの鍵穴へ挿す。開錠の手応えになんだか手が痺れたみたいになって、少し緊張してドアを開けた。吸い込んだ瞬間胸が高鳴るような、彼の部屋の空気。お邪魔しますと口の中で呟いて、上がり込む。
テーブルに買い物袋を置いて、ぐるりと見回す。亡母が特注した古いシステムキッチンとはまるで違う造りのキッチンの、のっぺりした二口のIHコンロも、調理器具の置き場所も、炊飯器の設定も、何もかも新鮮だ。
コートと背広を脱いで、ワイシャツの袖を捲り上げる。少し肌寒く感じて、エアコンのスイッチを入れた。
ピンポーン、インターホンが鳴る。
リビングの壁掛けモニターには、暗い色のスーツの男、この部屋の主が映っている。鍵を閉めてしまったんだっけと急いで玄関に出たが、レバーはあっさり下へ動いて、そのままドアを開けることができた。
見上げた先、やや背の高い半井は、睦月を見下ろすだけで目瞬きさえしない。
「あの……おかえりなさい」
おずおずと言うと、ふふふ、堪らずといったふうに笑い出す。
「ただいま、睦月」
言うや否や玄関に押し戻されて、ぎゅっと抱きしめられた。独特の煙草のにおいと、くたびれたコロンのにおい。ふふ、胸板はまだ愉快そうに震えている。
「なから……幹人さん?」
「なんだよ、エプロンは反則だろー」
「反則って」
「いつもしてるやつ?」
「あ、うん」
ワイシャツに油や調味料が跳ねたら、あとが面倒だ。カレーなんて特に。当たり前にしていることが、どういうわけか恋人の琴線に触れたらしい。
「いいなあ、エプロン姿の睦月。新婚気分が高まる」
「……もう、なに言って」
笑い含みの息が耳にかかり、頬に唇が押し当てられる。
「あれ言ってよ」
「あれ?」
「ご飯にする? お風呂にする? ってやつ」
「……もう。バカ」
気恥ずかしくなって胸を押し返すと、半井はようやく抱擁を緩めてくれた。それから、睦月に口付けたばかりの唇を指でゆっくり撫でながら、うっそりと目を細める。
「家に明かりが点いてて、あったまってて、料理のにおいがして。睦月が待っててさ。いいもんだよな」
それはまさに、睦月が母を亡くしてから、子供ながらに守ってきたことそのものだ。苦労だったとは思わないが、こんなふうに、自分の好きになった人をも幸せそうな表情にできるのなら、まるで無意味でなかったのなら、自分もまた幸せに感じる。
「カレー、さっき煮始めたところなんです」
「そっか、まだおあずけか」
「あと三十分くらいかな」
「楽しみだな」
「普通のカレーですよ」
「睦月の手作りなら、それだけで特別だよ」
「プレッシャーかけないでください。先に飲みます?」
「うーん、睦月は?」
「幹人さんが飲むなら。それともお風呂入れる?」
「お、新婚ごっこに付き合ってくれるの?」
背広を脱ぎながら半井が笑う。着たきりだったのだろう、すいぶん皺が寄っていて、彼の疲労が現れているようだ。いつもスマートで、余裕があって、憎らしいくらい完璧な人だけど。今、少しほつれた髪や、ネクタイを取り去ったあとの寛いだ襟元、知らず漏れたのだろう気だるげなため息が、彼も普通の男なのだと感じさせる。
「……じゃあ、俺にする?」
少し声が擦れてしまったのが、緊張のせいなのか、情欲のせいなのかは、自分でもわからなかった。
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