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第5話

**5**  肩を叩かれ、リツは跳ね起きた。  その拍子に、何かとぶつかる。リツの下腹部から大腿を熱さが襲った。寝台の上、すぐ傍で上半身を起こしたゲルニアが傾いたカップを持ち、呆然としているのに気がつく。   (どうして、隣、昨日、ゲルニア様が、僕を、買い戻すと)  事態が飲み込めないまま、ただ、自分が主の持っていた飲み物を零してしまったことは理解できた。それも、布団の上にもだ。頭が真っ白になる。  これ以上、汚れを吸わせてはいけない。リツは慌てて自分の着ていたものを脱いだ。それで布団の上を擦る。だが、擦る度に、余計に染みは広がっていく。   「ひ、っ」  突然、手首を強く掴まれ、動きを止められた。こちらを見るゲルニアの眉間には皺が濃く寄っている。リツが衣服から手を離しても、それは変わらなかった。 (怒られる)    リツは青ざめ、布団の中から足を出し、ゲルニアとは逆の方へと後退る。逃げたいが逃げては余計に怒られるという恐怖のせいで、ひとつひとつが酷く緩慢な動きだった。  膝が寝台から落ちる前に、腕を引っ張られ、寝台に戻される。思わず目を閉じた。 「馬鹿か、お前は!」  怒鳴られ、いよいよ涙腺が緩む。完全に逃げる意欲をなくしたリツは、そのままゲルニアから抱え上げられた。  響いてくる振動から、寝台から降り、歩き始めたことがわかる。   (怒らせた。ゲルニア様。怒らせた。新しい、ご主人様)  段々と冷静さを取り戻してきた頭は、布の上の水分を布で拭いたところでたいした意味がないことや、そもそも、今自分が着ているものですら、ゲルニアが与えてくれたものだったのにと誤りに気がついていく。  着いたのは、白く深い、今は空の湯船の置かれた小さな部屋だった。リツはそこに降ろされた。ゲルニアが、壁に掛けられていた蓮口を手にとり、蛇口を捻る。勢いよく水が流れ出した。   (水)  音に気がつき、顔を上げたリツの方へ、大きな手が伸びてくる。恐慌状態に陥ったリツは、叱られることを承知で湯船の外に逃げようとするも、あっさり、腕を捕られ、中に戻されてしまった。 「じっとしてろ!」  また一喝され、身体から力が抜ける。あとはもうされるがままだった。下履きまで脱がされ、仰向けにされる。  ゲルニアは蓮口をリツの腹部や大腿の方へ向け、放水を始めた。幾粒もの水粒が、リツの身体を打つ。  冷たかった。  もう、逃げようなどという考えは浮かばなかった。これ以上、ゲルニアを怒らせたくなかった。  やがて放水が止んだ。 (怒らせた。せっかくの、ご主人様。また、僕)  *** 「ぅー……、ぅー……」  ゲルニアは、リツの身体を大盤のタオルでくるむと、また抱き上げた。そのまま、元の部屋まで歩き始める。途中会った使用人に氷と手ぬぐいを頼んでおいた。  焦っていた。リツの様子がおかしい。固く閉じられた目からはぼろぼろ涙が零れ、小さく唸り続けている。耳や尾は垂れ、しかし力が籠もりすぎているようで震えている。手は拳をつくったまま、いくら促しても開こうとはしてくれない。  寒いのか? 痛いのか? ゲルニアは大股で先を急いだ。 「おはようございます、タイチョーさん」  呼び止めたのはリシェだった。  起き出したばかりらしく、まだ寝間着姿だ。自慢の赤い髪にも寝癖がついている。普段なら無視をするところだが、足を止めたのは、今のリツの状態への助言があるかもと期待してだった。 「リシェ、この子は――」 「お風呂行くんですかあ?」 「や、もう」 「ナゴ族は、皆、水が苦手なんですよ。間違っても蓮口から直接、なんて酷い真似しないであげて下さいね。湯船に浅くでいいのできちんと溜めて下さい。その子、特にまともにお風呂なんて使わせてもらってなさそうだから慣れてないと思いますんで、ゆっくり……て」  ぽたり、タオルの隙間から覗いた一房の銀の髪、その先から落ちた水滴に、リシェはようやく気がついた。顔をしかめる。  ゲルニアも同じく、盛大に顔をしかめた。 「すまん。もう遅い」  とはいえ、こうなってしまった理由はわかった。ゲルニアは部屋に着くと同時に、暖炉に薪を放り入れた。椅子にリツを座らせ、その前に跪くと、手早く、水気を取っていく。  窓から差し入れた朝陽が、リツの髪を照らした。くすんで見えたそれは、白に近い銀だった。一本一本が細く、長い。  昨日、真っ赤になっていた身体も、やはり白。あちこちに痛ましい傷跡が残っている。ゲルニアはそっとその皮膚に直接触れた。今はもう、あそこまでの過敏な反応は見せないが、それでも小さく身体がびくついた。  知らず、ごくりと生唾を飲み込む。が、首を横に振り、今はそういう場合ではないと自分に言い聞かせた。気を引き締める。  よかれと思って用意した茶を、もろに被ってしまったのだ。熱かったはずだ。痛かったはずだ。事実、脱がせて見たそこは、赤くなっていた。  扉を叩く音に声をかける。現れたのは両手で桶を持った使用人だった。   「ゲルニア様、氷を」 「ああ、ありがとう。あと、医者を呼んでくれ」 「はい。かしこまりました」  受け取った氷を手ぬぐいでくるみ、太腿に置く。身体は大きく跳ねた。ぽたぽたと、更に涙が降ってくる。   「ぅー……、ぅー……」 「悪かった。悪かったから、ごめん、ああ」  名前を呼ぼうとしてそれすら知らないことに気がつく。いや、自分がつけないといけないのか。今は何も思いつかない。  膝を床についたまま、手を伸ばし、頭を引き寄せた。もう片方の手で軽く背を叩いてやる。とにもかくにも落ち着いてほしかった。撫でた髪は、思いの外手触りがよく、ついつい何度も上下に往復してしまった。  ナゴ族としては大きいらしいが、人間としてはやはり小柄だし、それを差し引いても痩せている。指先に慣れない感触が触れ、ああ耳かと思いあたる。細かな毛の生えたそれにそっと触れた。  ふと唸りが止まったことに気がつく。  不安に思い様子を窺うと、大きく見開かれた薄い茶の瞳と目が合った。

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