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第7話
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「ひっ、う、ぅ」
「こら、じっとしてないか! 余計に皮膚が擦れるだろう!」
医師はふくよかな中年の男だった。否が応でも、ギースやブズの姿を思い起こさせる。
更には太腿に触れられ、心臓が跳ね上がった。身体が勝手に、そこから逃れようと動く。椅子の背もたれに必死でしがみついた。それが悪かったようで医師からの怒号がとぶ。
(僕が、ゲルニア様を、怒らせたから。だから、また、罰を)
捨てられるという覚悟はしていても、やはり、痛いことは嫌いだ。しかも、リツにとって、白衣は見慣れないもので、その格好に余計に恐怖を煽られた。
舌打ちとともに、医師の気配が離れていく。呆れた声が降ってきた。
「おい、リシェ。こいつに、この軟膏を塗って、あと包帯を巻いてやれ。それから冷やしてろ。ただの軽い火傷だ」
「はーい、お預かりします」
「パッと見だが、貧血もありそうだ。他の傷跡も気になる。もう少し、人間慣れさせてから呼べと奴に伝えてくれ」
「はーい」
乱暴な扉の閉じる音に、そうっと顔を上げてみる。医師の姿は消え、『リシェ』と呼ばれていたナゴ族だけが残されていた。
目が合う。まさに『ナゴ族』といった美しい容姿、小柄な体躯をしていた。うらやましく思う。そして、自分の育ちきった大きな身体を恥ずかしく思った。目を伏せ、意味はないとわかっていながらも、足を椅子の上にあげ、少しでもと、リシェに背を向け、小さく縮こまった。
「これ、薬。塗りたいんですけど」
抑揚のない声だった。首を横に振って応える。ゲルニアや先ほどの医師も言っていた『火傷』など、リツには意味がよくわかっていなかった。ただひたすらに、今の状況から逃れもう1人になりたかった。
「僕がやらないと、貴方、自分ではやらないでしょう」
衣擦れの音、それから溜息が後ろから聞こえてきた。リツはなおも首を振り続ける。
リシェとふたりきりだという状況が、怖かった。早く出て行ってほしかった。
「これをやっておかないと、僕がタイチョーさんから怒られるんですよ」
リツの耳がぴょこと起き上がる。リシェが、ゲルニアのことを『タイチョーさん』と呼んでいたことを思い出した。
(『ご主人様』、に怒られてしまう。僕のせいで)
振り返る。リシェは椅子の真正面に正座をしていた。医師から渡されたのであろう軟膏の容器の蓋を開け、待機をしている。
リツは、ゆっくり椅子に座り直した。
「ご、めんなさい」
「別にいいですよ。はい。足、触ります」
「あ、の!」
勢いよく立ち上がり、椅子から降りる。リシェの前にリツも正座をした。ぐっと近くなった距離で見るリシェはますます小さく、弱々しく映った。
傍らに、包帯が3つ置かれていた。両手首を揃えて差し出す。
「し、縛って下さい」
リシェは大きな目をますます大きく見開いた。「は?」と素っ頓狂な声があがる。
「足も、」
「僕は、そんな趣味はないんですけど」
終始無表情だったリシェの眉間に皺が寄る。苛立たせているとわかった。けれど、そうしてもらわないと、不安で仕方がなかった。
つくづく自分は、我慢のできない奴なんだなと自己嫌悪に襲われる。
「あ、ほ、包帯、借りれませんか? 足は、自分で縛れます」
「これは、貴方の手当をするためのもので」
「じ、じゃあ、あの。僕、1人で塗れます。これを、ここに塗ればいいんですよね? 大丈夫です」
「だから、任せられませんって言いましたよね」
堂々巡りだ。
どうやら、リシェは自分のことをわかっていないらしい。当然だ。初対面なのだ。けど、だからこそ、怖い思いをさせたくなかった。できれば、嫌われたくもなかった。
唾を飲み込み、覚悟を決めて言う。
「僕、貴方を傷つけるかもしれないです。な、殴ったり、蹴ったりするかもしれないです」
「……そんな力があるとは思えませんが」
「お願いします」
深く頭を下げる。沈黙が続いた。やがて、ひやりとした感触がリツの手に触れた。
「よく、わかりませんが。まぁいいでしょう。それで、薬を塗らせてくれるのであれば」
リシェは包帯を手に取り、差し出した手首をひとまとめに縛ってくれた。足も同様にしてくれる。
(よかった)
細い指が軟膏を掬い、リツの太腿を撫でる。緊張していた。動かないように息を詰め、その様子をじっと見つめる。
処置自体は数分で終わった。リツにとっては長い時間だった。冷たい汗が、こめかみを伝い落ちる。
「はい。あとは、また氷で冷やしていて下さい。多分、痛み出すと思いますけど、そのときは言って下さいね」
「は、はい」
「じゃあ、解きますよ」
「あ、え、だ、大丈夫です」
「大丈夫って、何が」
「解かなくても、」
リシェの眉間の皺が更に濃くなる。
リツは少しでも距離をとりたくて、壁際まで後退った。目線を逸らし、自分の足を引き寄せる。
また、ブズのところへ帰されるのだろうか。ギースの元からあのような立ち去り方をしてしまったのだ。戻ってからのことを思うと怖くてしかたがない。それとも、このまま外に出されるのだろうか。それとも、もういよいよ処分されるのだろうか。
(どうせ)
どうせもう、自分の頭を撫でてくれるような人は現れない。
(ゲルニア様が、ご主人様になってくれたら、よかった)
けど、それも叶いそうにない。
「――発情期は、いつから始まったんですか?」
リシェはまだ、部屋から出て行くつもりがないらしい。腕の隙間から気配を窺えば、先ほどと変わらぬ姿勢で、絨毯の上に座っていた。
大きな黄みがかった赤い瞳がこちらを見据えている。
とにかく質問に答えなければと、リツは早口でそれに応じた。
「ブズ様のところに売られて、10歳くらいのころ、です」
「いつもああいうやり方を?」
昨夜、ゲルニアの他にリシェが傍にいたことを、朧気ながらに思い出す。リツは顔を赤くした。
「僕、は、我慢ができないので。ああやって、縛ってもらっていました。すいません、でした。昨日は、みっともないところを」
「何を我慢していたのですか?」
「ま、前を、触るのを。つい、手が出そうになるので。ごめんなさい」
「どうして、ダメだと思ってるんですか」
リシェは何を言っているのだろう。リツは膝に額を擦りつけた。
「触ったら、ダメ、って、ブズ様が言ってました。頭、真っ白になるの、怖い、です、し。でも、僕、どうしても手が出てしまって、だから縛ってもらった方が、安心でき、て」
きっと、リシェはそんなことをしてもらわなくても、大丈夫なのだろう。意識を飛ばすなんていう真似はしないのだろう。あそこまで、前を触りたいなんて思わないのだろう。
(僕がオカシイから)
リツはまた羞恥に駆られ、力一杯目を閉じた。目尻に涙が滲む。
「……少し、何か口に入れた方がいいですね。用意してきます」
リシェがようやく立ち上がったようだった。扉が開き、そして閉じる音に、リツはそうっと顔を上げる。
誰もいなくなっていた。暖炉の中で火が燃えている。静かな朝だ。
(疲れた)
リツは縛られた手足をもう一度確認し、目蓋を降ろした。
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