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第8話

** 8 **    閉めた扉を背にし、気を落ち着かせようと、リシェは何度も深い呼吸を繰り返した。どくどくどくと、鼓動がうるさく頭に響き続ける。  リシェにとって、発情期とは、『ご主人様』に存分に甘えられる蜜月の時を意味していた。 (ずっと、あんな)  唇を噛みしめる。リツに同情した。  予想はしていたが、本人の口から直に聞くとなお酷い。  彼はまともに成長できていない。そうでなければ、仮にも売り物であった彼が、あそこまで人間(いしゃ)を怖がるわけがない。同族である自分を恐れるはずがない。  中古品のナゴ族、それもリツは他より身体が大きい。元より売り手など期待されていなかったのかもしれない。   (放置されていたんだ)  薄暗い檻の中で、両手両足を縛られて、あれだけの傷を負わされて、気が狂いそうな夜を何度も過ごしてきたんだ。  調教のつもりだったのか、遊びのつもりだったのか、どちらにせよ、想像するだけで、身震いがする。 「リシェ様? どうかされましたか? 顔色が」  ハッと顔を上げる。ゲルニアの屋敷の使用人だった。我に返ったリシェは、彼女に、何か消化のよさそうなものを持ってきてもらうよう頼んだ。  頭を振り、もう一度深呼吸をする。 (タイチョーさんは、彼を受け入れるだろうか)  昨夜の様子では、珍しく執着を示していたように思えた。医者と入れ替わりに部屋を出て行った際も、普段の薄ら笑いはなく、感情を露わにした険しい顔をしていた。それがどういう意味なのかまではわからない。 (受け入れてくれるといいな)  リシェは、リツを驚かせないよう、静かに扉を開けた。リツは、部屋の隅で、両手足を縛られたままうつぶせになっていた。窮屈そうな姿勢だと思う。けれど、リツはそれを『安心』できると話していた。  近づいても起き上がる気配はない。骨の浮いた背中が規則正しい呼吸を繰り返している。どうやら眠っているようだ。  リシェは、暴れた際に落ちたのだろうタオルを拾い上げ、慎重にリツにかけた。一瞬、耳が小さく動いたが、すぐにまた寝息が聞こえてきた。  余程深い眠りに入っているらしい。   (19歳だとか言ってたっけ、タイチョーさんより1つ上、僕より9も上)  それなのに、彼はこんなにも幼い。身体は育ちきっているにも関わらず、精神が幼い、未発達で、歪だ。  突然、リツの肩が震え始めた。嗚咽が聞こえてくる。泣いているようだが、両腕の中に顔が埋もれており、表情まではわからない。  何か夢を見ているのだろうか。いい夢ではないようで、時折うなされている。だが、明確な言葉にまではならない。「ぅー、ぅー」と唸るだけだ。  不意に、リシェの目から涙が落ちた。   (うわ)  自分でも驚き、咄嗟に目を押さえる。一度零れてしまってからは止まらなくなってしまった。  椅子の上で膝を抱え、俯く。  どんなにもてはやされていても、自分達の種族が、『人間』の愛玩用として生産、販売されていること、保護法などあっても、立場が弱いことも知っていた。  知ったつもりでいた。  けれど、それだけだった。 (タイチョーさん、早く、早く、帰ってきてよ)  元より、ナゴ族を飼うことになど興味はなさそうだった。ギースに連れられて行くんだと仕方なさそうに話をしていた。  けれど、店から帰ってからは随分とそわそわとしていて、隅も隅で売られていた彼のことをよく話していた。  どうかどうかと、願う。 (彼の頭をたくさん撫でてあげてよ。たくさん、抱きしめてあげてよ)  ***    別に、名前の明確な候補があったわけではない。だが、今の飼い主は自分なのにという憤りはあった。  ゲルニアは、ただただ黙々と大股で通りを歩いていた。開き始めた店の主や、早朝の散歩を楽しむ老夫婦をびっくりさせる勢いで目的もないまま、まっすぐに突き進む。  リツ、などと、呼びたくない。 (が、)  ゲルニアは眉間に皺を寄せ、長く息を吐いた。  出際に見たリツの顔を思い出すと胸が痛む。ようやく緩み始めていた表情がまた、強ばっていた。青ざめ、震えていた。  ぴたりと足を止める。  冷えた空気が、薄着で飛び出してしまったゲルニアの身体と頭を確実に冷やしていく。そんなつもりはなかった。 (きっと、傷つけた)  ちゃんと、医者からの処置を受けただろうか。あれ以上の傷跡が残らないだろうか。泣いてはいないだろうか。  怒りが解けてくると、今度は心配事ばかりが浮かんでくる。  戻ろうと振り向いたところで、ゲルニアの行きつけの服屋が目に飛び込んできた。いつのまにこんな場所までやってきたのだとうかと驚きながらも、ハッとする。 (服)  今朝は、ゲルニアのシャツを羽織らせていたが、袖は長く余り、浮いた鎖骨やあばらが見える程、襟口が開いてしまっていた。  ゲルニアは、開いてまもないその店の扉を、迷うことなく引いた。  すぐに店員が駆け寄り、ゲルニアの姿を見、掛け物を貸してくれた。 「いらっしゃいませ。ゲルニア様、本日はどういったものをお求めでしょうか?」 「ああ、っと、そうだね。ううん……」  普段にないゲルニアの歯切れの悪い様子に、店員は首を傾げる。  ゲルニアは迷っていた。リツの容姿を思い浮かべる。  肌の白い、痩せた身体をしている。背丈は、今目の前にいる女性の販売員ほどだった。耳と尾、それに髪は自分より色素の薄い銀色だった。長く、腰まである。  いつだって、八の字に寄せられた眉と少しつり上がった大きな目のバランスになんとも庇護欲をそそられた。   (あまり、形が定まっているものは苦手そうだな。緩い、柔らかい素材のものがいい。被るだけの方が楽だろう。体力もなさそうだ。軽い素材がいい。色は淡いものがいい。白、だとより儚い印象になってしまいそうだ。瞳の色と合わせて、薄い橙色や赤はどうだろうか)  長いこと棒立ちで考え込んだ後、ゲルニアは、女性用の衣服を2着購入した。まだ足りないだろうが、いずれは本人に選ばせればいいだろう。  紙袋を手に、無意識の内に小走りにさえなりながら、ゲルニアは急ぎ帰路についた。

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