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第9話

** 9 ** 「誰か状況を説明してくれないか」  自室に戻ってみれば、そこには理解しがたい状況が広がっていた。まずは使用人がおろおろと食事の入った容器を手に右往左往している。次に、リシェが、あのリシェが、椅子の上で蹲り、なんと泣いているようだ。そして、リツは、裸のまま俯せ、またあの唸り声を上げている。やはり、泣いているようだ。  暖炉の中で、薪が焼け崩れる音がした。  ゲルニアはひとまず、使用人から食事を受け取り、下がらせた。   「おい、リシェ、っと」  勢いよく、顔が上がった。ゲルニアの方を振り返り、大きく目を見開く。一気に頬を赤く染めた。 「か、えって、?」 「あ、ああ。今、帰った。――すまん」  思わず謝ってしまったゲルニアを、リシェは思い切り睨み付けた。椅子から勢いよく立ち上がり、逃げるように部屋から飛び出していってしまった。  何がどうなっているのか。ゲルニアは、表情こそ変わらないものの、内心、非常に動揺していた。ゲルニアの知るリシェはといえば、冷静沈着、飼い主以外には情を持てない奴だとさえ思っていた。 (な、泣いてたな)  首を横に振った。忘れよう。忘れた方が身のためな気がする。  手に持っていた食事を、ひとまず、寝台傍の台の上に置き、リツの元へ近づく。   「ぅー、ぅー……」  泣くときまで苦しそうだな。そうゲルニアは、眉をひそめ、そっとリツに触れた。    *** 『なんてことをしてくれたんだ!』  そう怒鳴っているのは、リツの一番初めの飼い主だった。久しぶりに寄越された視線、久しぶりにもらえた声、そのどれもが、リツを非難していた。  大きな手が、リツの頬をぶつ。起きたばかりで、まだ状況のつかめないリツの頭は、それでようやく覚醒した。 『もういらない』 『いらない』 『いらない』 『いらない』  足が動かない。暗闇のあちこちから鋭い視線が、リツを貫く。よくよく聞くと、声は2つだった。リツの以前の飼い主達だ。耳をふさぎ、身体を小さく折っても、声は直接、内側に響いてくる。  突然、ぐいと、腕を引かれた。   『これから、よぉく可愛がってやるからな』  ギースだった。  いつの間にか、仰向けにさせられたそこは、寝台の上だった。肌の上を慣れない感触が襲う。   (嫌だ)  薄い胸を撫でられ、舐められ、縮こまったままのリツ自身を嬲られる。  声も出せない。身体も動かせない。ただただ、リツはギースの動きを見つめるしかなかった。涙だけが、堪えようもなく溢れ続ける。  助けてと願う。誰がと疑問が沸く。誰もいないと諦める。けれどと足掻く。それを繰り返す。そのとき、また、声が聞こえた。 「――!」  ギースの手が消える。暗かった周囲が段々と明るくなっていく。  身体が揺すられている。リツは一度、顔をしかめた後、目を開いた。眩しい程の光が飛び込んでくる。ようやく、夢を見ていたのだと気がついた。  体中が、水を浴びたように冷たくなっていた。汗が、絨毯の上に落ちる。リツはゆっくり、縛られたままの手首を自分の方へ引き、身体を起こした。      「リツ!」  ゲルニアだった。澄んだ青色が、じっとこちらを見つめている。床に膝をつき、リツの背に手を触れ、名前を呼んでいる。リツは下唇を噛みしめた。   (ご主人様、)  見つけてくれた。抱いてくれた。頭を、撫でてくれた。  組んだ掌に額をくっつける。出てきた声は嗚咽と重なり、甲高くひっくりかえった。 「ど、っどう、か。す、捨てないで、下さ、い」  飼い主の意向に逆らったことなど、これまでなかった。喉の奥からどうにかあふれ出た、小さく、か細い声だった。手もずっと震えっぱなしだ。それを収めようと更に固く指同士を組ませる。   (ゲルニア様)  リツはひたすら祈る。  ゲルニアの傍には、既にリシェという立派なナゴ族がいる。自分よりずっと、小さく可愛らしくしっかりしたナゴ族だった。だから、諦めないといけない、諦められると思っていた。それなのに。   (嫌だ)  突然、両肩を強く掴まれ、起こされた。咄嗟に、身を竦ませる。  怒った。当たり前だ。けど、もうこれで、今度こそ諦めがつく。リツは、両手を顔の前にしたまま、固まった。 「す、」  上擦った声が降ってきた。続いて咳払いが聞こえてくる。リツはゆっくり、目蓋を持ち上げた。  ゲルニアが、顔を赤くし、こちらの方を睨むようにして見据えていた。耳と尾が一斉に立ち上がり、その先から細かに震え出す。 「……捨てるなんて、考えていない」  はたと、目を見開く。  ゲルニアは、気まずそうな様子で、今度は目線を下にしていた。 「さっきの態度のせいで、不安にさせてしまったのだとしたら、すまなかった。そういうつもりじゃなかった。ただ、君の」  また、目が合う。 「君の名前を、つけたかった」  涙がぽたりと、頬を伝い、落ちた。 「前の飼い主をうらやましく思っただけだ。らしくないことはわかっている。店員にも怪訝な顔をされた。あ、ふ、服を、似合うと思って、色々見繕ってもらって、着てもらえたらと……ああ、違うんだ。とにかく」  ゲルニアの掌によって包み込まれたリツの手が、下へとさげられる。遮る物がなくなり広くなった視界の中、やっぱりゲルニアはキレイだと、リツはその端正な顔に改めて見とれた。   「捨てるつもりなど、一切ない。ここにいてほしいと、思っている」  言われたことがなかなか理解できず、信じられず、何度も瞬きを繰り返す。  『いてほしい』など、これまで言われたことはなかった。  胸が苦しい。指先が痺れて痛い。  くりゅぅぅ……と、間の抜けた音が聞こえてきた。不思議がることはない。自分の腹の音だった。   「ふ、あ、いや。もう昨晩からまともに食べていないのだから、無理もない。食事も準備できているようだから、ほらこっちにおいで。と、ああ」  笑うのを堪えてくれたらしいゲルニアによって、手首と足首にかけられていた縄が解かれる。途端に、心許ない不安に襲われるが、それを口にする前に、抱え上げられていた。  突然高くなった視界に怯え、リツは思わずゲルニアの衣服にしがみつく。すぐにそれに気がつき、今度は慌てて手を離した。その様子にゲルニアは目を細めた。 「これからよろしく。ね」  こんなことがあるのだろうか。  目眩がする。チカチカ、光が何度も瞬いては消える。 (これから。これからがあるんだ。ゲルニア様と、の、『これから』)  リツは、実感が沸かないまま、ふわふわとした心地を味わいながら、小さく頷いた。

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