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第12話

** 12 **  鐘の音で目を覚ます。腕の中ではリツがすうすうと寝息を立てていた。右手の親指が口に含まれている。 (指吸いの癖でもあるのか?)  歳の割に幼いその動作に苦笑する。ゲルニアは、シーツに広がる銀の髪をひと撫でし、起こさぬよう注意しながら布団から抜け出した。  ***  リツが起きたのは、その数時間後だった。ゲルニアの姿がないことに驚き、大きく目を見開く。 (僕、寝て)  背筋が凍り付く。転びそうになりながら、寝台から降りた。部屋中見回しても、主の姿はない。窓から外を見れば、太陽が既に高く顔を出し、通りには多くの人間が行き交っていた。目眩がする。  リツは部屋の中をうろうろした後、意を決して、扉の前まで来た。勝手に出ては怒られるだろうかと迷いはしたが、ゲルニアの不在が、心配でしかたがなかった。ノブに手をかけ、捻る。しかし、押しても引いても開かない。 (鍵)  気持ちが挫けそうになるも、踏みとどまる。怒られてもいい、罰を受けてもいい。拳をつくり、扉を叩いた。無事でいればそれでいい。 「だ、誰か、誰か」  やがて、慌ただしい足音とともに、扉が開いた。昨日も見た中年の女性だった。リツは後ずさりながら、それでも、目線は合わせたまま、彼女に問う。 「あ、あの、ゲ、ルニア様、は」 「ゲルニア様ですか? もう出られましたよ」 「っ怪我とか、していなかった、ですか?」 「はい? ええ、特にいつもと変わらない様子でしたが」  リツはほっと息を吐いた。冷たい汗が、こめかみを伝い落ちる。足の力が抜け、その場に崩れるようにして座り込んだ。   「あら、リツ様、血が」  女性の手が伸びてくる。それに、リツは目を閉じ反射的に身を竦ませた。ゆっくり足の裏で絨毯を押しながら尻をずらし、距離をとる。  薄目で見ると、女性はまだ立ってはいたが、それ以上触れてこようとはしなかった。   「おはようございます、ミエラさん。どうかしましたか」 「リシェ様」  顔を上げる。美しい赤髪の少年がそこにいた。目が合う。 「どこか怪我をされているみたいで、血が」 「血? ああ、本当。少し服について」  その言葉に、リツは自分の姿を見下ろした。確かに、赤い染みが服の下の方に転々とついていた。  血の染みは落ちない。あのときも落ちなかった。   (大切にしたかったのに)  愕然とするリツの肩に手が触れた。リシェだ。 「痛いですか? どこか怪我を」 「あ、ふ、服、」 「服?」 「水、もらえませんか? 服、昨日、ゲルニア様からもらって、せっかく、もらったのに」  話している内に、喉元が熱くなってきた。堪えきれず、嗚咽が飛び出す。涙が落ちた。洗えば染みは薄くはなるかもしれない。早く、早く洗わないと。そればかりが頭の中で大きく膨らんでいく。 「怪我は?」  リツは首を横に振った。水をもらいたかった。もらえないのであれば、捜しに行きたかった。少しでもきれいにしたかった。  リシェは一度、ミエラの方を振り返った後、溜息を吐いた。 「案内します。替えの服は……ああ、これですね」  寝台の上に置かれたままになっていた服が持ち上げられる。今着ているものと同じ型の服と、『下着』だ。リシェはそれを見、首を傾げた。リツの方を振り返り、何か言いかけたものの口を噤む。 「こっちです」  スタスタと歩き始めたリシェの後ろを慌てて追う。その後ろからは、ミエラが続いた。  前にも、ブズに売られたばかりの頃、主から唯一もらった服が同じように汚れてしまい、必死に洗っても落ちなかった覚えがある。  どうしても、そのときのことが思い出され、落ち着かない。  リシェが扉の前で足を止めた。リツに向かって手を差し出す。 「脱いで、服を下さい」 「……?」 「ミエラさんに渡します」  尾が立ち上がり、一気に膨らんだ。  リシェの言うところの意味が全くわからなかった。リツは両手で服の裾を掴み、後退る。しかし、背面にミエラがいることに思い出し、それ以上は動けなくなった。 「い、嫌です」 「彼女がきれいにしてくれます。貴方がやるよりもずっといい」 「僕の服を? ど、うして?」 「それが仕事ですから。ほら、早く。時間が経てば経つほど落ちづらくなりますよ」  リシェの言葉に更に焦らされる。 (本当に? きれいにしてくれる? どうして? 仕事? 嫌だ。捨てられたらどうしよう。戻ってこなかったらどうしよう。それなら、このまま手元に置いておきたい)  空気を嗅ぐ。外から忍び込む冷たい空気の気配がどこから来るのかすぐにわかった。 「ミエラさん、捕まえて剥がして下さい」  リツが駆け出そうとした瞬間、後ろから捕らえられた。無茶苦茶に暴れるも、女性とはいえ、リツよりも体格のいいミエラに敵うわけもなかった。被るだけだった服はあっという間に脱がされ、ミエラの手に渡ってしまった。 「か、返して」  こんなことになるのなら、リシェに付いていくんじゃなかった。水を求めたりするんじゃなかった。いや、そもそも、汚した自分が全部悪い。  後悔と、リシェやミエラに抵抗できず服を渡してしまった罪悪感で、また涙が落ちる。 「捨てないで、返して、ゲルニア様から、せっかく」  足早に去っていくミエラの後を追おうと一歩を踏み出したリツの手首を、リシェが引き留めた。 「あなたはこっちです。服は任せておけば大丈夫です。さ、湯を溜めましたからこちらへ」  いつの間にか、扉が開いていた。  引っ張られるがまま、言われて湯船を覗き込めばそこには四分の一ほど、湯が溜まっていた。   「手足が冷たい。それに、毎日きちんときれいにしておくのはナゴ族の努めですよ」 「い、いい。服、向こうに、行きたいです。行かせて」 「任せておけば、って何回言わせるんですか」  低くなった声の音色に、リツはそれ以上の声を飲み込む。リシェの力ならば振り切れるかもしれないが、無理をして、傷つけたくなかった。  やっぱり、あきらめるしかないんだ。そう決着をつけた途端、嗚咽が止まらなくなった。 「うっ、ぅー……、ぅ」 「ゆっくりでいいですから、ここに入って、そう座って」  リシェに指示されるがままに、湯船に浸かる。手早く丸洗いにされる間中、リツの目からは涙が止まらなかった。

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