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第10話
* * *
朝の鍛錬終わりに、カヒトは呼びに来たリアノと共に魔導士長の研究室へ向かった。国内の知識のすべてが収められていると言われている、魔導士長の研究室は、部屋というよりも棟と言ったほうがしっくりくる。
城庭の一角にある薬草園の傍に、城から突き出たレンガ造りの窓の少ない棟の書庫には、限られた人間しか手にできない書類や、失われた魔術についての資料などが眠っていると言われていた。
(ここなら、紋を消す方法もすぐに見つかるんだろうなぁ)
ひっそりとしている重厚な建物を見上げて、カヒトはリアノとの時間もここまでかと、腹の上に手を乗せた。
「グズグズするな。ついてこい」
ぶ厚い木の扉を押して、リアノは書物と薬草の匂いに満ちている建物の中に入った。続いて入ったカヒトは、ポカンと口を開けて室内を見回した。高い天井へ向かう螺旋階段が壁をグルリと取り囲んでいる。ちらほらと見える窓を除いて、壁は本に埋め尽くされていた。中央には大きな机と古びたソファが置かれている。奥に扉があり、リアノはまっすぐにそこへ向かった。
「変な造りだな」
キョロキョロしながら、カヒトはリアノについていく。
「魔導士長ニルオス様。リアノです」
鍵の開く音がして、リアノはドアノブを回した。魔導士長ニルオスとは初対面のカヒトは、どんな姿だろうかと物語に描かれる賢者の姿を想像した。
「ニルオス様」
リアノが頭を下げた先には、枯れ木のように細く、シワだらけの老人がいた。物語の賢者のように、長いヒゲをたくわえていることもなければ、荘厳な気配をまとっているわけでもない。ちんまりとした姿の、庭師とまちがえられてもおかしくはない簡素なシャツとズボン、革の長靴を履いた老人に、カヒトは目をぱちくりさせた。
「あいつが、魔導士長なのか?」
「失礼だぞ、カヒト」
「はは。かまわないぞ。率直な男は嫌いではない。兵団長カヒトの評判は、よく耳にしている。こっちに来て、お茶でもどうだ」
手招かれて、恐縮するリアノを横目に、カヒトはズカズカと近づいた。テーブルにはお茶とパン、チーズやハム、果物などが並んでいる。
「昼時前だからな、食事をしながら話をしよう」
ずいぶんと砕けた人物らしいと、カヒトは遠慮なくソファに腰かけ、パンに手を伸ばした。
「そんじゃ、いただきます」
「ニルオス様、お気遣いいたみいります」
「そうかしこまらなくてもいいぞ」
好奇心いっぱいの少年みたいな青い瞳が、垂れ下がったまぶたの奥で輝いている。パンにチーズとハムを乗せてかぶりつきながら、カヒトはニルオスに好感を抱いた。
(なんか、どっかで見たことある気がするんだよな)
彼そのものではなく、面影というか、似た人間と会った気がするカヒトは、まじまじとニルオスを観察した。
「ワシの顔が、そんなに珍しいか。まあ、こんなしわくちゃの老人は、兵士の中にはいないからなぁ」
「失礼だぞ、カヒト」
「いい、いい。それよりも、色々と大変だったようだな」
「は……お手を煩わせることになってしまい、申し訳ありません」
「いやいや。珍しい事例に出会うのは、いくつになっても楽しいものでな。ああ、失礼。そちらにとっては大問題だとは、わかっているんだが」
「なんだよ、リアノ。先に話をしてたのか」
「お忙しい中、相談を受けていただくのだ。事前にうかがいを立てるのは当然だろう」
「ふうん? じいさんなら、いきなり来ても平気で話を聞いてくれそうだけどなぁ」
「カヒト!」
「ははははは。じいさんには違いない。うんうん、かまわん、かまわん。ついでに、本当のじいさんにさせてもらえると、さらに愉快なんだがなぁ」
「は?」
ポカンとしたリアノの横で、カヒトも動きを止めた。ニコニコしているニルオスは、すべて解決していると言わんばかりの笑顔で、手のひらを上に向ける。
「まあ、食べながら話をしよう。ふたりの意見も聞かずに、ワシが望む解決法を押しつけるわけにもいかないからなぁ」
楽しげなニルオスにうながされ、疑問を顔いっぱいに浮かべながらリアノもパンに手を伸ばした。
「それでは、ありがたく頂戴いたします」
「もっと、カヒトのように気楽にしてもいいんだぞ、リアノ」
「いえ、そのように失礼なことはできかねます」
「じいさんが、いいっつってんだから、失礼にはならねぇんじゃねぇか」
「カヒト、おまえはもう少し遠慮や敬意を示せないのか」
「仲がいいな、ふたりとも。聞けば、幼馴染だそうじゃないか」
「物心ついたときからの知り合いです」
「知り合いだなんて、つれねぇな。俺は、リアノの唯一の友達って言われてんだぜ」
「他人の評価なぞ知らん」
「なんだよ。友達じゃねぇのかよ」
それ以上になりたいと望んでいるのだと言えないリアノに対して、カヒトは友達とすら思ってくれていないのかと落ち込んだ。
(キスだって、してくれたってのに)
やはり紋のことがあるからしかたなくだったのかと、ふてくされたカヒトは乱暴にパンをかじった。目じりを下げてふたりをながめるニルオスは、のんびりとお茶を飲んでチーズをつまむと口に入れた。
「ニルオス様。なにか、解決方法が見つかった、ということなのでしょうか」
おずおずと問うたリアノに、ニルオスがうなずく。
「見つかった、と言っていいのかはわからんが、対処法はある」
「どういうこった? 解決じゃなく対処ってこたぁ、退治はできねぇけど、追い払うことはできるってぇことか」
「追い払う……そうだなぁ。この場合は、紋がよそで悪さをしないようにする、と言えばいいか」
「紋は取れねぇが、制御はできるってことか」
「まあ、うむ。だが、双方が納得をせねば難しい」
「俺と、リアノが?」
「ふたりの今後の人生に関わる問題だからなぁ」
のんびりとしたニルオスの、確信に触れそうで触れない物言いに、ふたりは顔を見合わせた。
(今後の、人生に関わる)
つまり、分かちがたい関係になるということかと、ふたりは同時に期待を抱えた。想いを伝えなくとも、相手といられる理由ができる。気持ちが通じていなくとも、傍にいられる。
(それは、願ってもない対処法なんじゃないのか)
おなじ想いを抱きながらも、ふたりは互いに視線を流して相手の心情を探った。
(リアノが――)
(カヒトが――)
(了承するかはわからない)
「で、その方法なんだが」
カップを置いたニルオスに、ふたりは顔を向けて背筋を伸ばした。
「紋についてだが、過去に使われていたものも、魔物の魔力を利用して紋を刻み、さまざまな効力を発すると記録にある。つまり、カヒトの紋も原理はおなじだな。ただ、刻んだものが人ではなく、魔物そのものだった。ここまでは、わかるか」
うなずいたふたりにうなずき返して、ニルオスはお茶で唇を湿らせると、説明を続けた。
「過去に使われていた紋は、使役の紋と言ってな、魔物の魔力を与えることで、相手を使役する、と言えばいいか。まあ、主従関係になると理解すればいい。書類にサインをするのではなく、紋を刻んで契約とした。肉体が契約書だな。目的をもって、魔物の力を紋という形で相手に宿す。むろん、誰もができるわけではない。魔術の知識を持ち、なおかつ使えるものがいなければならない。ただ、施すのは魔導士だが、契約者は魔術の知識がなくともかまわなかった」
「ちょっと待ってくれ、じいさん。ええと、俺の紋みてぇなヤツを、契約のサインみたいな感じで使ってたってことだよな。そんで、魔物の力を使うから、魔導士じゃねぇと無理……ってこたぁ、普通に考えりゃあ、着けるのは魔導士で、される側は魔力がなくてもかまわねぇから、誰でもいいっつうことだよな。それがなんで、契約者は魔術を知らなくても平気なんだ?」
「契約書を作る人間と、サインをする人間は別だということだ。契約書を作成し、双方の合意を持ってそれぞれがサインをする、と言えばわかるか」
「ん? てこたぁ、魔導士は紋を刻んで、刻んだ相手と契約する相手を取り持つってことか」
首をひねったカヒトに、リアノが説明をする。
「そうだ。前に紋の説明をしたときに、奴隷の話をしただろう。使役するものが魔導士のみであれば、商売はできない」
「俺みてぇに無差別に引き寄せちまったら、魔導士じゃなきゃどうにもできなくなるんじゃねぇのか?」
疑問に、ニルオスが答えた。
「そうならないように、飼い主が制御をするんだ。飼い主、という言い方は好ましくないが、この場合はそれ以外に的確な表現がなくてな。許してくれ」
「許すもなにも、奴隷ってこたぁ、家畜みてぇに扱われてたってこったろ? 主人にとっちゃあ家畜みてぇなもんだから、当然だと思うぜ。好きか嫌いかって言われりゃあ、嫌いだけどよ。あ、てこたぁ、俺はいわゆる野良だから、飼い主ができれば制御ができるっつうことか」
「そういうことだ。聞けばリアノによく反応をするそうじゃないか。つまり、ふたりは相性がいい。どうせ契約をするのなら、相性がいい相手と結ぶのがいいだろう」
「なるほどなぁ。だから、これからの人生がかかってくるっつうことか。飼うのなら、死ぬまで責任を持てってこったろ?」
願ったりかなったりの提案だと、カヒトは頬を持ち上げた。対するリアノは難しい顔をして、口元を手で押さえた。
(私が、カヒトの飼い主になる)
ニンマリと歪んでしまう唇を隠すための行為だったが、カヒトは嫌悪されているのだと受け取った。
(かわいくもねぇガタイのでかい男の世話を、死ぬまで見なきゃなんねぇってんだからな。そりゃあ、イヤだよなぁ)
しかしリアノは受けるだろうと、カヒトは思う。救おうと考えたものを、中途半端に放り出すような無責任な男ではないからだ。
「ほかに、方法は」
指の隙間からこぼれたリアノの声に、カヒトは別の方法が提案されないようにと願って、ニルオスを見た。ニルオスはなにもかも見通した目で、ふたりの表情を見比べた。
「ないこともないが、強制的に紋を剥がすのでな、命の保証はできないぞ」
愉快そうに目をクルクルさせたニルオスに、リアノはゾッとした。口調は軽いが、声には真実しか含まれていない重みがあった。
(カヒトが、死ぬ)
ならば提案を受け入れようと、リアノは腹を決めた。別の方法を聞いたのは、後から違う解決法を知ったカヒトに後悔をされたくなかっただけで、本心はよろこんでおこなう気でいた。命の危険があると言われれば、カヒトも承諾せざるを得ないだろう。
「かまわないか、カヒト」
「死ぬよりゃ、リアノに飼われるほうがいいからな。ちゃんと世話してくれよ? ご主人様」
冗談めかしたカヒトの言葉に、リアノは肌を赤らめた。キョトンとしたカヒトに、「そういう趣味はない」と吐き捨てて顔をそむける。
まずったかなぁと、カヒトは後頭部をガリガリ掻いた。
(まあ、ヘソを曲げてもリアノはきっちり、やるからな)
拒絶はされないと踏んで、ニルオスに問う。
「で、どうやりゃあいいんだ」
「繋がればいい」
「ん?」
「紋に飼い主の精気をたっぷりと吸わせて、宿主が相手を主人だと受け入れれば完了だ。奴隷の場合は、拷問などで無理にでも受け入れさせていたらしいが」
「拷問なんざされなくても、ちゃんとリアノを主人だって思うから問題ねぇよ」
さらりと言ったカヒトに、リアノは飛び上がりそうになった。ドキドキと心音が高まって、頬がゆるんでしかたない。こんな顔を見られるわけにはいかないと、うつむいて顔をしかめる。肩まである黒髪が肩から流れて、リアノの表情を隠した。
「紋に直接、体液をかけて精気を吸わせてもいいんだが。カヒト……おまえ、親になる気はあるか」
「親? あ、もしかしてリアノから、ガキができるかもしんねぇってことまで聞いてんのか」
「相談の文に書いてあった。確証はないが、可能性はある」
立ち上がったニルオスは、奥の机から日に焼けた書類を手に戻ってきた。
「ここに書いてあるんだが」
「なんだ、読めねぇぞ?」
「魔術書だからな。魔導士専用の文字で書かれている」
首を伸ばしたリアノが、文字を目で追いながら音にした。
「魔力の強い子を求めるには、相手に紋を刻み、主従の契約を交わすと同時に性交をおこなえ。双方ともに魔力が強ければ、より優秀な子を授かる」
「ほーん? てこたぁ、俺とリアノのガキなら、格闘もできる魔導士が生まれるってことか」
「同性同士で子どもを授かっても、母体に影響はないのですか」
「それについては、次を見ればいい」
ぱらりとめくられた紙には、裸身の男の絵と文字が書かれていた。男の尻の奥に印があり、説明が書かれている。
「子を授かる紋というものがある。男でも尻が濡れて、受け入れられる体になると書いてある。子どもは拳に収まるほどの卵で産まれ、しばらくすればそれが膨らみ、殻が破れる」
「鳥みてぇだな。卵は、あたためておかなきゃなんねぇのか」
「いいや。だが、大切に世話をしてやらなければならん。生まれるのは六か月から七か月。卵が孵化するのは、生み落としてから三か月ほどだ。はじめは手のひらに乗る大きさの卵だが、だんだんと大きくなって、最後には人の子どもほどに育ち、殻が割れる」
指で丸を示したニルオスが、両手で空中に卵のおおよその大きさを描いた。
「見てきたように言うんだな。大昔の魔術なんだろ?」
いくら枯れ枝のような老人でも、数百年も生きているとは思えない。カヒトの質問に、ニルオスは自慢げな顔で立ち上がり、服をたくし上げて腹を見せた。
「あっ」
ふたりは同時に声を上げた。そこには、うっすらとだが紋らしきものの一端がベルトの上に覗いていた。
「若い頃にな、自分の体を使って実験をした」
「結果は?」
緊張気味なカヒトに、ニルオスは服を下ろして「成功した」と答えて座った。
「ですが、そんな話は聞いていません」
「相手が相手だったからな。口外すれば問題だ。子どもは別のものが生んだことになっている」
「相手が相手、とは……子どもは、生きているのですか」
「生きている。まあ、めったに逢えることはないと思うが、顔くらいは見ているはずだ」
さっぱり予想がつかなくて、ふたりは首をひねった。ふたりの反応にますます得意な顔になり、ニルオスはクックッと喉を震わせる。
「ワシがなぜ、魔導士長におさまっていると思う? むろん、知識や魔術の腕に自信はある。だが、優秀なものはほかにもいる」
謎かけに、先に気がついたのはカヒトだった。あっ、と言ってニルオスを指さす。
「どっかで見たことある気がすると思ったら、じいさん……国王に似てるんだ」
指をさすなど失礼だと叱るのも忘れて、リアノは目も口も丸くしてニルオスを見つめた。くすぐったそうに肩をすくめたニルオスが、答え合わせをする。
「正解だ、カヒト。ワシの相手は前国王。そして子どもは、国王だ」
長い息を吐いて、カヒトは指を下ろした。
「そりゃあ、口外できねぇなぁ」
「そうだろう」
「しかし、前国王はなぜ」
「子を成せぬと悩むものを救いたいと仰せられてな。前国王の妹君が、隣国に嫁いだのだが、子ができなかった。夫に側室を持たれ、悲しみに暮れている妹君を想ってのことだ。だが、おおやけに実験をするのははばかられる。そこで、ワシに白羽の矢が当たった」
「抵抗は、なかったのですか」
リアノの問いに、ニルオスは片目をつぶった。それだけで、リアノは察した。
(恋を、なされていたのか)
前国王の気持ちはわからないが、ニルオスは前国王に懸想をしていた。だから、受け入れたのだと羨ましくなる。
(カヒトもそうであったなら、私は遠慮なく抱けたのに)
気持ちを乗せた視線を、隣のカヒトに流す。カヒトもまた、ニルオスのウインクの意味に気がついて、羨望を抱えていた。
(俺もリアノに言われたら、すぐに話に乗ってるな)
彼が望んで刻んだのではなく、油断から魔物に刻まれた紋ではあるが、リアノとの間に子どもを授かり、共に人生を歩んでいけるのなら願ったり叶ったりだ。
「どうだ、ふたりとも。子どもを授かるかどうかはわからないが、試してみないか」
「俺は、やってみてぇ。どうせ契約をしなきゃなんねぇんだったら、とことんまで試したいからな」
「私も、異論はありません。ですが、子どもを授かったとして、公表はできるのでしょうか」
子どもの未来を案じるリアノに、ニルオスはまたウインクした。
「言っただろう。本当のじいさんにさせてもらえると、さらに愉快だと、な。まずはふたりをワシ専属の護衛と助手として迎える。そのうえで魔術の研究をおこなったとして、成功すれば発表をする。子どもはワシの孫として育てる。失敗をしても、まあ、そのときはそのときだ」
ニルオスの専属の護衛となれば、カヒトはここに詰めることになる。助手となったリアノもおなじだ。異変があったとしても、即座に対応できる。
「どうだ。悪い提案ではないと思うが」
ふたりは同意をすると確信しているニルオスの瞳に、同時にうなずくカヒトとリアノの姿が映った。
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