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scene.8 新米理美容師

「…それじゃ始めるか。亜咲。例のやつ、準備しとけよ?」 「はい」  結真さんの声がけで、俺は本格的な対客作業に初めて関わる事になった。 2号店の方でも少しはやっているけれど、まだ資格取得前の俺が一人前に出来る作業というものにはやっぱり限界があって、いつも途中で他の人と交替してしまう状態だった。  だが今回は、相手が資格取得してからまだ経験年数の浅い結真さんが一人だけなので、俺はかなりの作業を受け持つことになった。  それでも経験年数が浅いとは言え、結真さん自身の技術力は大したもので、俺が中々覚えきれなかった作業もそつなくこなしていく。  その姿は、俺がこの道に進もうと思ったきっかけであるこのサロンの社長の作業姿を見事に投影していて、かつて社長に憧れていた頃の自分を思い出させるような光景だった。 「…結真さん…すごく綺麗ですね…。」 「…ん、何か言ったか?」 「…あ、すみません…」 「…何だ。謝るような事なのか?」 「いえ、何でもないです。…でも、本当に凄いですね。経験年数まだ浅いのに、もうそこまで出来るようになるとか…。結真さんて器用なんですね」 「…俺はまだまだだよ。芝崎さんの足元にも及ばない。でも経験という観念から考えれば、俺なんかより亜咲の方がよっぽど長いだろ?」 「…けど、俺は…。」 「…何も焦る事なんてないさ。…技術の取得は人それぞれだからな。自分が納得できるまでじっくり時間をかけてもいいし、早く取得したいならひたすら認定試験を受け続けたっていいんだ。…最終的に自分が目指す理美容師の理想の形が見つかれば、それが亜咲にとってのゴールになる。そうじゃないか?…ほら、出来たぞ。ここからは君の仕事だ」  そう言って、結真さんが一歩後ろに下がる。 ふと気が付いてみれば、目の前のリオンさんの髪形のベースはすでに出来上がっていて、後は俺が受け持つパーマネント技術の作業を待つだけの状態になっていた。 「リオンさん。…全体的にどんなイメージになればいいですか?」 「…そうですね…。中性的だけど、第一印象の髪形のシルエットの柔らかさが見えれば、それが理想…ですね」 「…中性的…?…うーん…じゃあ、男性にも女性にも見えるんだけど、でもどちらでも違和感がないような巻き方をすればいいのかな…?」  そのイメージを実際に言葉に出す事で、俺は自分の頭の中に終わった後の実際の髪形の見え方を想像してみる。それを実践してからロッドの巻き付け作業を始めると、何故か俺自身の作業の効率が上がり、そしてどのように巻けばその通りになるのかという一連の作業の流れも見えてくる。すると不思議なことに、俺の中で完成した髪形のイメージが一気に広がっていくのだ。たまたまその瞬間に立ち会ったみわ子さんは、俺を見てかなり驚いたらしい。  しかもその瞬間だけは、いつもは何となく冴えない感じの普段の俺とは全く違う表情になっていたと、そう聞かされたのは随分と後になってからだった。  そんな「ゾーン」のようなものに入った途端、俺は全ての意識が弾け飛んでしまって、そこから終わるまでの間の記憶がすっぽりと抜け落ちている…なんてのもよくある事だ。  今回もどうやらそんな「ゾーン」の瞬間に出くわしてしまったようで、俺の中で弾け飛んだ意識の欠落は作業している間もずっと続いていった。   「…さき…。…亜咲…。…大丈夫か?」 「…!…あ…。」 「作業、終わったぞ。…いや、それにしても凄いな…。…みわ子さんが言ってた理由がよく分かった。…これはもう流石の一言だよ」 「そうですか…?」 「うん、そう思う。…亜咲は本当に器用なんだな」 「…ありがとうございます」 「…じゃ、後は俺が仕上げておくから。…裏で少し休憩しておいで。…疲れてるだろ?」  結真さんはそう言って、俺を裏のバックヤードで休むように促してくれた。 確かに、こういった「ゾーン」に出くわした後の俺はいつも疲れ切ってしまって、その心も身体も全て消耗してしまう。そこから元の体力を取り戻すまでには、かなりの時間を要する。  なので、バックヤードに入ってから横になってしばらくすると、俺はそのまま自然と深い眠りの中へと落ちていったのだった。 「…亜咲…亜咲。…起きろ…。」  俺の名前を呼ぶその声は、何故か遠くで聞こえている様な気がした。しかも今ここに居るはずのない声だ。…おかしいな…、航太がこんな所に居るはずなんて無いのに…。  俺は眠っている意識の底で、その声の主が航太であると認識していた。だが航太が通う学校があるのは都内であり、今のこの時間の、この近辺に航太が居る事は絶対にあり得ない。 「…起きないと…キス、するぞ…?」  そんな声が聞こえてきたと同時に、俺は自分の唇が塞がれている事に気付いた。 そんな突然の出来事に驚いた俺は、一気に現実に戻される。 「…っ!…ファッ…!!??」 「…よし、起きたな」 「…っこ、こ、こ…航太っ!?…おま、何で…っ!!??」 「…あれ、言わなかったっけ?…今日は午前中だけだって」 「いや、聞いてない!…つかお前、昨日あのまま家に帰ったんじゃ…?」 「…帰ったよ。…でもそれとこれとは別。…学校帰りにお袋んとこ行ったら、亜咲がこっちに来てるって言ったから寄っただけ。…でも店舗の中に居なかったから探したら、こんな所で無防備に寝てるし…」 「…ああ、そうか…。ごめん。少し疲れてたから…」 「うん、結真さんから聞いた。仕事中に倒れたんだって?」 「ええ!?何でそうなる!?」 「でもそう言ってたよ?」 「いや、俺別に倒れてないし!お前また自分の都合のいいように勝手に解釈してないか!?」 「おかしいなぁ…確かにそう言ってたけど…」  航太の勝手な思考転換は今に始まった事でもないが、今回は何だか様子が違うようだ。 俺はただ自分が仕事に集中し過ぎて疲れ切ってただけなのに、どうしてそういう急展開になるんだ?と困惑していると…。 「…おや?気が付いたようですねぇ。…亜咲君、大丈夫ですか?…こんな事もあろうかと、航太に一応連絡しておいたんですけど…。」 「…いや、お前かい!!」 「…嬉しいでしょう?…気が付いた時に自分の恋人が横に立っていると」 「…オレ心配したんだぜ?亜咲が倒れたって親父からLINEが飛んできた時には。だからすげー急いで帰ってきた」 「…社長…。…そういう事ですか……。」  キスされてから意識を取り戻した時に、やけに航太が心配そうな顔をしているな…とは思っていたが、その裏にある元凶が実は社長の悪戯だったと知って、俺は呆れと脱力感から盛大に溜め息をついたのだった。 「おや、これは…。余計なお世話でしたかね?」 「…社長。もしかして俺らの事、ただのバカップルだってからかってません?」 「…分かりますか」 「分かりまくりです。…嬉しいけど」 「君ならもう少し喜んでくれるかと思ったんですけどねぇ…。」 「いや、そういう問題じゃ…」 「…オレは本っっっ気で心配したんだぞ…!」 「…それは分かってる。分かってるから…もう大丈夫だから、安心しろ。…ごめんな、航太」    航太の心配そうな顔を見ているのが何だか急に申し訳なくなってきて、そんな航太をどうにかして安心させたくて、人目も降らずに俺は初めて自分からキスをしてあげたのだった。  

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