12 / 124
第12話 涙のキッス1
(葵語り)
期末テストが終わり、数週間で夏休みに入ろうとしている頃だった。
俺は人生で初めて赤点を取った。
奇しくもそれは熊谷先生が担当している現代文で、それが彼には気にくわなかったらしく、くどくどと説教を受けることになった。
「伊藤君、現代文赤点ってどういうこと?」
別に俺が赤点を取ろうが一切関係無いと思うのに、熊谷先生は怒り口調だ。机に置いた答案用紙をバシバシと何度も叩かれた。
「君さ、いちおう補習って目的で、ここで昼ご飯を食べていることになってるんだよ。
国語がこんなにできないとは思わなかった。赤点取るなら教えておけばよかった。はぁ……」
「……はい。」
くどくどくどくど言われる。
「夏休みになったら、補講を受けてもらう。もれなく夏休み中でも俺に会えるな。よかったね。」
「…………しょうがないもん…………」
「今、なんか言った?」
「何も言ってません。空耳です。」
嫌味な言い方に反論したかったが、何倍になって返ってきそうだったので言葉を飲み込んだ。できなかったものはしょうがない。
だって国語は苦手なんだよ。
遠くの方で予鈴が鳴る。
説教モードの熊谷先生から早く逃れたくて、素早く片付けをして生徒指導室を出ようとした時だった。
ドアを開けると、廊下から聞き慣れた声が耳に入ってくる。その内容に思わず固まり、動けなくなった。
「猪俣先生、赤ちゃんは元気?」
「元気ですよ。毎日よく寝て、本当に可愛いです。」
話し声からして、先生と女の先生のようだった。楽しそうに談笑している。
「奥さんは?育児に疲れてない?」
「疲れているみたいで。俺も手伝っているんですけど……なかなかですね。母親は大変みたいです。」
久しぶりに先生の声を聞いた。
奥さんの手伝いとかするんだ。
奥さんはどんな人なんだろう。赤ちゃんは男の子?女の子?
奥さんは、綺麗なのかな?
奥さんは…………
気が狂いそうになった。
自分が今まで抑えていたものが、すべて溢れてくる。考えないようにして、避けて通っていたものが一気に押し寄せてきた。
先生の家、家庭、家族、赤ちゃん、奥さん。
せんせい……
ずっと聞きたくて聞けなかったこと。
恐くて口にすることすらできない。
先生から連絡を待っているだけの、体だけで繋がる俺達の陳腐な関係。
俺は先生の何ですか………
いつの間にか唇を噛み締めていたらしく、口の中は涙と鉄の味がした。
「我慢せずに泣いていいよ。」
突然、後ろからぎゅっと抱きしめられて、俺は困惑する。ふわりと煙草の匂いがした。
ともだちにシェアしよう!