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第56話 熊谷先生の憂鬱10
(熊谷先生語り
駅まで葵を迎えに行く。
夕方の駅は人でごった返しており、煩くて落ち着かない。
キョロキョロと改札口から抜け出てきた葵に小さく手を振ってみる。厚めのアウターにリュックという姿は高校生らしくほっこりした。
俺を見つけると笑顔で走ってきたので、久しぶりに見る表情に胸を撫で下ろす。
良かった。元気みたいだ。
肩が触れるか触れないかの距離を並んで歩く。隣に歩幅を揃えるようにゆっくりと歩を進めた。葵は終始うつむき加減で、たまに見えるうなじが街灯の光に照らされて一層白く見えた。すぐそこまで夜の闇が迫っていることを、弦のように細い三日月が静かに告げていた。
「どうぞ、入って。キレイではないけど」
誰かを家に入れるのに、こんなに緊張したことはないくらい手汗を掻いていた。
学生の頃は部屋に入れたら、あとはヤッたもん勝ちみたいなところがあって、入れるのに必死だったなと真逆な状況に少し笑った。
絶対に何もしないって誓うし、話だけだからと何度も何度も説明したいくらい誠実な気持ちで葵を迎え入れている。
ところが玄関の扉を閉めると、いきなり葵が腰に抱きついてきたのだ。
こんなことされると俺も……非常に困る。
「ん…………どうした?」
男の子で力はあるため、腕の力が結構強くて苦しい。
「ごめんなさい。ごめんなさい…………」
小さく何度も呪文のように繰り返し謝っていた。
「昨日、折角話しかけてくれたのに………うぐっ……ごめんなさい」
それを謝りたかったのか。
神様、こんなに可愛い恋人を俺に与えてくれてありがとうと思いながら、軽く抱き返した。
「本当はすごくうれしかった。そっけなくして………ごめんなさい」
「わかったから、もう泣くな」
申し訳なさそうな葵の背中を、ぽんぽんと軽く叩いた。
「座って話そうか」
奥へ行くように促すと葵はゆっくりと頷いた。
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