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第4話 猪俣先生④
(葵語り)
「…………言ってる意味が……わかりません。」
一言絞り出すのがやっとだった。
「昨日、巡回中に猪俣先生の車がビジネスホテルから出てくるところを見たんだ。その後、挙動不審な君が出てきた。言ってる意味は分かると思うよ。君たちはホテルで何してたんだろう。」
熊谷先生の言う意味を考えたくもなかった。それって、俺をホテルから尾行して駅前で声を掛けたってこと?
悪趣味だ。強く噛んだ口の中に苦い味が広がる。
先生とのことは、誰にも言えない。言いたくないし、言うつもりもない。
黙り続けている俺に熊谷先生が更に続けた。
「これは、年上からの忠告だと思って聞いて欲しい。」
「……………」
「猪俣は既婚者だ。」
そんなこと……最初から承知だ。
「知らないかもしれないが、先週赤ちゃんも生まれたんだ。猪俣は狡い大人だ。君は利用されているだけじゃないかな。」
俺は利用されてるって、先生は狡いって、分かってるよ。いちいち言葉に出して残酷な現実を突き付けないで欲しい。
俯いた俺は、ぎゅっと目を瞑った。
「このことは一切他言しない。よく考えて、自分を大事にして欲しい。猪俣の誘いに乗らず、高校生らしい恋愛をしようよ。」
分かり切った御託を正しいかのように並べられ、不愉快な気分になる。
初めから何も生まれない関係なのは知っていた。俺からお願いして始まった関係だから、我儘は言えない。わざわざ俺のために時間を割き、会ってくれるだけで十分だった。
だけど……人間は貪欲で、手に入ると、もっと上のものが欲しくなるのだった。本当は、先生のすべてを独占したかった。その気持ちと、いい子でいたい自分がずっと心の中でせめぎ合っていた。
見透かされたような熊谷先生の言葉に全身に鳥肌が立つ。
「………熊谷先生。」
「何かな?」
「俺は……自分を大切にするって言葉の意味が分かりません。『高校生らしい恋愛』も全く……想像もつかないです。」
「……そうか……じゃあ、俺が教えてあげるよ。毎日少しでいいから、こうやって話そう。君に足りないのは、高校生らしさだと思う。一歩下がって物事を冷静に見過ぎだ。もっとこう……単純に感情を表現していいんだよ。」
話す?そうしたら分かるの?
そしたら、先生を諦めることができる?
声とか、手とか、おへその形とか、キスとか、ぎゅってしたときの匂いを忘れることができる?
そんな訳ないじゃん。バカみたい。
「熊谷先生と話すことなんてないです。」
「ははは、はっきり言うね。何でもいい。俺が一方的に話すことを黙って聞いていてくれればいい。じゃあ…………明日から、お昼ご飯をここで一緒に食べようか。約束な。」
「は、はぁ?……別にいいですけど。」
突拍子もない提案に驚いて俺は顔を上げた。熊谷先生がニコリと笑う。
「決まり。絶対来いよ。伊藤君が来るのを待ってるから。」
そして、出張で居ない時もあるからと俺に携帯番号とメールアドレスを教えてくれた。
これが俺と熊谷先生の始まりだった。
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