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『どこにも行かない』  約束だと言われて、もう一度頷く。 『約束……』  その約束を、千春は今も守っている。  十四年間、同じ場所で誠司を待っている。どこにも行かず、誠司だけを。  ベッドから足を下ろすと、冷たい床が氷の棘のように皮膚を刺した。踵を浮かして、洗面所に向かう。  玄関を入ってすぐの洋間を出ると、廊下を挟んだ反対側に洗面所とトイレがある。廊下の突き当りに広くも狭くもないLDKと、隣に、今は母が一人で使っている和室が一部屋。古い2LDKのマンションに、千春は母と暮らしている。  父は、いない。十四年前に交通事故で他界した。  誠司が千春たちを訪ねるようになったのは、父を亡くした頃からだ。  上田(うえだ)誠司は母方の従姉妹で、千春の母である理恵(りえ)の姉、奈美恵(なみえ)の一人息子だった。千春の姓は吉野(よしの)。死んだ父方のものだ。  スポーツ万能で成績優秀、何をやらせても当然のようにトップに立つ誠司は、背が高く顔立ちも整い、言動は素っ気ないのに、いざという時には頼りになった。友人たちからの人望も厚く、バカみたいに女性にモテた。  大学卒業後は外資系の証券会社に入り、七年間で二度の海外勤務を経験している。清潔な黒髪と涼しげな黒い目は異国の女性をも魅了したようだ。華やかな噂話は千春の耳にも頻繁に届いたが、誰とも長くは続かなかった。  そのことに、千春はひそかに安堵している。  同じ遺伝子を受けていながら、千春のほうは全てにおいて平凡だった。可もなく不可もなく、大きな失敗もしない代わりに、取りたてて目立った活躍をすることもない。顔立ちだけは美人と評判の母に似ていて褒められたけれど、それもどちらかと言えば女性に対する褒め言葉で、気持ちを伝えてくる相手も異性より同性のほうが多かった。  誰かと恋愛をする気はなかったので、そのあたりのことはどうでもよかった。

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