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 この春就職する勝山(かつやま)商事は食品関係の小さな商社で、大手飲食チェーンの一部や個人経営のレストランを主な取引先にしている。職種は営業。実際の仕事内容はよくわからない。採用担当の社員からは、入社してから少しずつ覚えてゆけばいいと言われた。既存の取引先を回るだけなので、それほど難しいことはないということだ。  自分を売り込むのが苦手でなかなか内定をもらえなかった千春を、勝山商事だけはなぜか気に入ってくれた。だから精一杯頑張って、できるだけ早く役に立てるようになりたい。そして、女手ひとつで育ててくれた母に、一日でも早く安心してもらいたいと思っている。 「…………」  鏡の前に立ち、棚に置いたスマホで日付と時刻を確認した。  二月十八日。午前七時半を回ったところだ。本当なら今日は入社前研修があるはずだった。そろそろ家を出なければならないはずの時間だった。  けれど、研修は中止になった。一昨日になって、急な変更で申し訳ないという謝罪とともに連絡があった。何度も詫びられたけれど、実はこれで二度目だ。『少しバタバタしていて』と謝るだけで、詳しい理由は教えられていない。  少し不安になる。  それでも、入社式まではひと月半足らず。今さら心配しても仕方ないと気持ちを入れ替える。  連絡を受けたのがアルバイト先のカフェの休憩時間だったので、千春はそのまま、今日の早番にシフトを入れてもらった。  カフェ『カナイ珈琲』は最寄り駅への途中にあり、ゆっくり歩いても十五分はかからない。出勤時刻の九時までには、まだ十分な余裕があった。  顔を洗って再び鏡を見ると、濡れて濃くなった睫毛と、それに囲まれた大きな目が千春を見つめ返していた。蜂蜜みたいだと誠司が言った淡い色の瞳が、どこか不安そうに揺れている。 (どうして、あんな夢を見たんだろう……)  誠司がどこかへ行ってしまう。  そのイメージが、夢から覚めても薄い膜のように瞼の裏に張りついていた。  もやもやとした根拠のない不安が、心の内側に居座っている。

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