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【2】-1

 習慣というのは侮れない。心は仮死状態でも、足は勝手に千春の身体をアルバイト先まで運んでいった。  駅に続く桜並木の大通り。それと直行する何本かの道の一つを、うつむいてとぼとぼ歩く。大通りに出る交差点の角に千春のアルバイト先はある。  こじんまりした商業ビルの二階。『カナイ珈琲』は誠司の友人でもある金井芳樹(かないよしき)がオーナー兼店長を務める個人経営の店だ。  目的地まであと十数メートルというところで、千春はふいに顔を上げた。どこかに誠司の姿を見た気がしたのだ。  足を前に出しながら、ぐるりと首を回して振り返る。二歩目を踏み出したとたん、何かの上に乗った感覚とともに身体のバランスを崩した。  左足が勝手に前に滑ってゆき、身体が傾く。体勢を立て直そうと両腕で宙を掻くが、かえって状況を悪くしただけで、逆につんのめった状態で黒っぽいアスファルトに顔から突っ込んでしまった。  凍った路面に鼻と頬を擦るザリッと乾いた音。直後に、ガシャンと硬い金属音が離れた場所で響いた。  黒い革靴が視界に入る。 「君……、大丈夫か」  高級そうなスーツの腕が千春の身体を抱き起こした。こんな上質な生地でできた仕立てのいい服を着ている人間を、千春は一人しか知らない。 「誠司さん……、なんでここに……?」  けれど、見上げた顔は、誠司のものではなかった。縁のない眼鏡をかけているし、髪も明るい栗色で軽くウェーブがかかっている。全くの別人。  慌てて身体を起こしながら、もう一度その人の顔を見る。

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