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「申し訳ない」 「いえ……」 「店の中で手当てをしたいが、少し時間はあるだろうか」  目の前の建物を男が指し示す。  誰もが知る全国チェーンのレストラン『ボナヴィータ』のロゴが、一階のガラス窓に描いてあった。その下には新規開店を知らせる貼り紙。オープンの日付はおよそ一か月後の三月十五日になっている。 「搬入経路に問題があるのはわかっていた。それなのに、対処を後回しにしてしまった」  男がもう一度「すまない」と謝る。 「いえ……。ぼんやり歩いていた僕が悪いんです」  相手の手に支えられて、ゆっくり立ち上がる。手当てだけでもさせてほしいと繰り返す男に、千春は首を振った。 「これからバイトなんです。すぐそこの『カナイ珈琲』で……。もう行かないと……」 「では、私も一緒に行こう」 「え……?」  千春はもう一度、男の顔を見た。確かにどこかで見たことがある気がするのだが、やはり思い出せない。 「あの、どうして……?」 「君の上司に事情を説明しなければならない。謝罪もしたい」  ノンフレームの眼鏡を軽く押さえ、男は革の名刺入れから一枚の名刺を取り出した。怪しい者ではないと伝えるためだろう。だが、長方形の紙を受け取った千春は、そこに並んだ文字を目にして思わず二度読み返してしまった。  ――株式会社ラ・ボナヴィータ、代表取締役社長、有栖川正隆(ありすがわまさたか) (『ボナヴィータ』の、代表取締役……? だから、見覚えがあったんだ……)  有栖川正隆は、飲食業界における若手カリスマ経営者として広く知られている人だ。千春も、経済紙やリクルート雑誌などのインタビュー記事で、何度もその顔を目にしたはずだった。  彼の会社『株式会社ラ・ボナヴィータ』は日本中にイタリアン系のファミリーレストランを展開する超有名企業で、昨年末に島根に出した新店舗をもって、ついに全都道府県を制覇したと話題になったばかりである。全国の店舗数を合計すると千を超える。

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