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 黙って話を聞いていた金井は、苦笑いを浮かべて頭を掻く。 「そりゃあ、間が悪かったなぁ……」  歩道に台車を置いておくことは確かに危険なことだが、前を見て歩いていれば普通は避けられる。たまたまよそ見をしていた千春は、運が悪かったのだろうと続けた。 「仕方ないよな」  軽く肩をすくめて、もう一度千春の顔を覗き込む。頷く千春に「だけど、あれだな」と言いながら、何とも言えない顔をした。 「やっぱり今日のところは、このまま帰って休んだほうがいいな」 「え、でも……」 「シフトなら心配しなくていい。春休み中だし、誰か暇なやつがいるだろ」   それよりも、だいぶ派手に転んだようだから、ゆっくり休めと言う。 「後であちこち痛みが出るかもしれないし、ちゃんと手当てもするんだぞ」  もう一度「でも」と言う千春に「だいたい、その顔じゃ……」とまた苦い笑いを浮かべる。 「うちも一応、客商売だからな。俺と店のお客さんのためにも、今日は黙って休め」  ぎゅっと顔を顰められて、そんなにひどいのだろうかと、ひりひり痛む頬に手を当てた。  金井に向かって、有栖川が口を開く。 「彼が休業している間の賃金保障、治療費相当額を当社で負担させてほしい。慰謝料については彼と直接……」  千春は勢いよく振り向いた。 「そんなの、いりません。僕が勝手によそ見して転んだだけなんですから」 「しかし、あんな場所に台車を置かせたのは……」  千春は強く首を振った。 「ダメです。自分のせいで転んだのに、それで仕事を休んで、その上お金をもらうなんて。病院に行くほどの怪我でもないし、何もしないでください」  少し前までぼうっとしていた千春が、急に頑なな態度で言い返したせいか、有栖川は眼鏡の奥の目をぱちりと瞬いた。 「だが……」  反論しかける有栖川に、千春はもう一度強く首を振った。 「ただ転んだだけです。働いてないのにお金をもらったりできません」 編集 メールで編集 画像を追加

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