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【2】-6

 かかりもしない病院の治療費など必要ない。慰謝料などなおさらだ。たとえ世間が許したとしても、自分は受け取らないと繰り返す。 「バチが当たるから、ダメです」  毅然として、最後にそう言い放った。  有栖川が、何か知らない食べものを口にした人のような、奇妙な表情を浮かべる。ノンフレームの眼鏡を押さえて二度瞬きし、直後にぷっと噴き出した。  何かおかしなことを言っただろうか。金井の顔を見ると、同じように口元を押さえて肩を震わせている。千春はかすかに眉を寄せた。  有栖川が降参したように両手を上げる。 「君にバチが当たるのか。それは確かに困る」  まだ口元に笑みを浮かべたまま、有栖川は続ける。 「では、何か別の形でお詫びをさせてもらおう。賃金保障や治療費、慰謝料の支払いについては、免除ということで甘えていいかな、千春くん?」  名前で呼ばれて顔を上げる。「吉野です」と一応名乗ってから、ひとまずそれでいいと頷いた。念のため「別の形のお詫びもいらない」と断る。 「欲がないなぁ……。だったら、せめて私の店で食事をしてもらえないだろうか」 「いえ。本当に何も……」  言いかけた千春の腕を、金井が軽く叩いた。まだ笑っている。 「千春、そのくらい受け取っておけ。このままじゃ、有栖川さんだって引くに引けないだろ」  諭されて、千春もようやく少し考えた。  確かに何もかも断ってしまうのは、謝罪を拒むのと同じような意味になるのかもしれない。それに、有栖川自身が経営する企業の食事券ならば、そんなに大きな負担にはならない気がする。  それでこの人の気持ちが楽になるのなら、たぶんそのほうがいいのだろう。 「わかりました」  ゆっくり首を縦に振ると、有栖川がにこりと笑った。

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