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【4】-2
千春が脇に避 けると、誠司は靴を脱いで廊下に上がった。誠司がここを訪れるのは三年ぶりくらいだが、何の迷いもなく洗面所の吊戸棚からピンポイントで救急箱を取り出すと、三人掛けのソファに向かってスタスタとリビングを横切ってゆく。
ひょいっと軽く指の先で呼ばれ、千春も慌てて隣に腰を下ろした。
懐かしい誠司の匂いを吸い込む。体臭そのものというよりも、シャンプーや洗剤やふだん使っているさまざまな品物のかすかな匂いが混じり合った、誠司の生活の匂いだ。千春を安心させる、一番好きな匂い。
息をするだけで胸がいっぱいになり、幸福感で満たされる。
ふいに母の言葉がよみがえった。
『誠司くん、とうとう結婚するんですって!』
急速に胸がしぼんでゆく。
(本当なの……?)
誠司に聞きたかった。
けれど、本当だと言われた時に、自分はどうなってしまうだろう。
考えるのが怖かった。
何か言ってはいけないことを口にして、全部を壊してしまいそうな気がした。
だったら、いっそのこと、その日が来るまで何も知らず、うやむやのまま耳と目を塞いでいたい。何も考えず、何も信じないで、心を殺して忘れていたい。
誠司の手が千春の頬に触れる。こんな時でも恋しくて胸が苦しくなる。
この手の温かさだけを感じていたいと思った。
今だけは……。
怪我をした時だけ千春に触れてくれる指の長い大きな手。その手の感触に全神経を集中させる。
こんなふうに手当てをしてもらうのも、およそ三年ぶりだ。
去年の秋まで、誠司はロンドン支社にいた。約二年半、二度目の海外勤務だった。一度目は千春が高校に入った年で、行き先はニューヨーク本社だった。期間は一年。
社会人になってから誠司が東京にいたのは、たったの三年半ほどだ。全体の半分。外資系の証券会社に勤務していれば、それでも多いほうなのかもしれない。
最初に帰国した時、千春はやたらと怪我をしてきて誠司を困らせた。体育の授業で必要以上にチャレンジしたり、自転車での帰り道、友だちと悪ふざけをしすぎたり。
怪我ばかりしてくる千春に誠司はすっかり呆れ果て、最後には自分で手当てをしろと言われそうになり、今度は千春が慌てた。
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