23 / 113

【5】-1

 三月に入っても、寒い日が続いていた。桜の蕾も春を忘れたように小さく固いままだ。  二週目の終わりに有栖川が『カナイ珈琲』を訪れた。  通りの先の新店舗の改装が終わり、視察に来たついでに立ち寄ったという。「ついでで申し訳ない」と詫びながら、搬入口を安全な位置に変更したことを千春に報告した。 「そんな、わざわざ……」  千春は恐縮してしまった。忙しいはずの有栖川が直々に伝えに来る話ではないような気がする。新店舗の店長なりエリア責任者なりに任せてもいいし、手紙一つでも十分だ。  千春のほうではすでにすっかり忘れていたくらいなので、仮に報告がなかったとしても何も気にしないだろう。  戸惑いに応えるように、有栖川が口を開く。 「あの場にいた責任者は私だからね。謝罪の方法を君と話し合ったのも、私だ。途中から部下に任せてしまっては、誠意に欠けると思わないかい?」 「お、思わないです……」 「本当に?」  こくりと頷く。 「気を悪くする人もいるかもしれない」  今度は首を傾げた。有栖川が笑う。 「まあ、人によってはね。だが、そういう感情が関わる部分こそ、おろそかにしてはいけないと思っている」 「感情、ですか……?」  有栖川は頷いた。 「全てに私自身が関わるのは無理だが、人の気持ちは大切にしたいと思っている。それを忘れてしまうと、レストランは、ただモノとして料理を売る店になってしまうからね」  それでは味も素っ気もないだろう? カリスマ経営者は問うように軽く笑ってみせる。 「同じ調理方法で同じ味付けをすれば、いつでも同じものが提供できる。それが工場を持つレストラン・チェーンの仕事なのかもしれない。それでも、それが全部同じ味だと思ってはいけないのではないかと、私は考えている。工場で作られたものを温めて出すだけなら、ロボットか自動販売機で構わない。人の手で提供するからには、人の温かさを伝えたい」

ともだちにシェアしよう!