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【6】-4
『お店を始めたら、僕も手伝うね』
笑いながら、誠司は『当てにしておく』と言った。
有能なディーラーになり、世界を股にかけて仕事をしている今、誠司はもう覚えていないだろうけれど……。
あれ以来、母の口から誠司の結婚の話は出ていない。千春のほうから聞くこともないから、どんなふうに進んでいるのか千春は何も知らなかった。
誠司はまた忙しくなったのか、ぷつりと訪ねてこなくなった。三月に入ってからは、ラインや電話もほとんど来ない。
仕事のほかに結婚式の準備もあるのだから、いろいろと忙しいのだろう。
そう思うと、胸が痛んだ。
有栖川はなぜかその後も『カナイ珈琲』を訪ねてきて、千春を食事に誘った。もう十分だと言っても、何かしら理由をつけて手際よく次の約束を取り付けてゆく。有栖川の手腕が見事であることは否めないが、千春自身の中に迷いがあるのがいけないのかもしれない。有栖川と出かけることが嫌ではないから、食事に誘われても断れないのだ。
有栖川はかなり忙しいはずなのに、どんな意図があるのか不思議だった。一度の食事では、謝罪の形として不十分だと思っているだろうか。
金井が有栖川に協力的なのも、謎だ。何を考えているのか、一度聞かなくてはと思っている。
そして、今日がその有栖川との三度目の食事の日だった。
二度目は別の系列店に招待され、三度目の今日は、最近オープンしたばかりのヌーベル・シノワに行くことになっている。一度、覗いてみたいから付き合ってほしいと言われて、了承してみたものの、考えてみれば同行してくれる相手ならいくらでもいるはずなのだ。気付いた時は、遅かったのだけれど。
一度目と二度目は昼の食事だったが、今日の予約は夜である。千春のシフトが終わってから迎えのクルマが来ることになっていた。
(でも、今度で終わりにしてもらおう)
このまま、いつまでも甘えているのはよくない。怪我をさせた詫びだと言うのなら、もう十分すぎるほどの誠意を見せてもらった。
けれど、ならばどんなふうに断れば失礼にならずに済むのか、考えても千春にはよくわからなかった。
銀のトレーを抱えて、どう言おうかと頭を悩ませる。いつになく店には客が少なく、少しばかり暇だった。
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