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【7】-5
「すまなかった。少し、焦り過ぎていたようだ。今の話は、一度忘れて」
「ごめんなさい……」
「謝らないでほしい。嫌な思いをさせてしまったのは、私のほうなのだから」
嫌悪感を抱いたかと聞かれて、首を振る。
ほっとしたように微笑んで、有栖川はもう一度「すまなかったね」と丁寧に謝った。
優しい人……。
どこか悲しい気持ちでそう思った。優しくて、大人で、千春の失礼な態度にも嫌な顔一つしない。咎めることもない。
この人に愛される人は、きっと幸せになるだろう。何も思い煩うことなく楽園に生きることができる。
「……そろそろ行こうか」
「はい」
「金井くんの店の前で、いいかな?」
部屋を取ってあるのなら、有栖川はここから移動する必要はない。
「あの……、電車で帰ります。駅も近いし、一人で」
返事はなく、小さなため息だけが落ちた。
(ごめんなさい……)
千春はまた悲しくなった。
月夜の湿原に似た店内を無言で出口に向かう。周囲のざわめきから零れ落ちる言葉の欠片が、とぎれとぎれに耳に届く。
「次はハワイに行きたいね……」
「この前観た映画の……」
「誕生日、何が欲しい……」
恋人たちの幸福な会話。思いが通じ合い、互いのために生きることを許された人たち。
「……お客様の人数は、このくらいで大丈夫かしら?」
入口近くのテーブルでは、結婚式の打ち合わせをしているらしい。
「六月の第二土曜日ね? だったら、そろそろ詰めていかないと……」
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