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【8】-2
髪は染めているのか、栗色のやわらかなウェーブに白いものは見当たらない。目尻と口元にかすかに笑い皺が浮かんでいるが、どちらも優しく感じのよい印象を与えるだけだ。老いを感じさせるものは何もない。
けれど、やはり若い頃とは違うと思った。母は、痩せた。
昔から小柄で華奢な人だったけれど、年齢とともに少しずつ小さくなってゆく。ずっと、こんな小さな身体一つで千春を育ててくれたのだと思うと、感謝の言葉が自然と零れ落ちた。
「お母さん、今までありがとう」
まだ、母がいる。
千春には大事な役目がある。誠司がいなくても、きっと生きてゆける。そんなふうに考えて自分を鼓舞してみる。
「お母さん、これからはうんと楽をしてね。僕が一生、お母さんを守るからね」
「うふふ、ありがとう」
母が笑う。
「でも、大丈夫よ。千春は千春の人生を生きなさい。お母さんだって、まだまだ頑張れる。せっかく新しい挑戦を始めたばかりだしね」
本社のバイヤーの仕事について母は楽しそうに話し始めた。その生き生きとした表情を見て、嬉しく思うのと同時に少し寂しくなった。
千春が社会人になれば、母はもう母としてではなく、一人の人間として自分の人生を歩いてゆける。千春はお荷物でなくなっただけで、最初から母には千春の助けは必要なかったのだ。
千春は別の形で母に甘えようとしただけなのだと気づく。必要としてもらうことで立っていられると思うのも、たぶん依存だ。一人で立てることとは違う。
千春が母にかけられる言葉は多くなかった。
「ずっと、元気でいてね」
それは確かに千春の心からの願いだけれど、心に空いた大きな穴を埋めるには、とても小さな願いだった。
入社式を翌日に控えた三月三十一日が、千春にとって『カナイ珈琲』の最後の出勤日になった。七年間アルバイトを続けた店ともとうとうお別れだ。
閉店後にはささやかな送別会が、金井によって計画されていた。
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