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【8】-4

「うん」 「お餞別」 「今までありがとね」  目を見開いている千春に、三人が口々に言う。にこにこ笑いながら、少し照れた様子で 「会社、頑張ってね」と付け加えた。  言葉が出なかった。  オーダー以外で彼女たちと言葉を交わしたのは数えるほどだ。ふだんから店員と客とが長く会話をするような店ではない。話したとしても天気の話がせいぜい。よほどのことがない限り、プライベートなことは話さない。  千春が彼女たちの勤め先を知っているのも、何度も来店する中で、たまたま会話の断片を耳にしたからだ。  そんな、知り合いにも満たない間柄なのに、わざわざ気にかけてくれたのか。 「ありがとうございます」  ブーケを抱えて、千春は深く頭を下げた。「頑張ります」と約束の言葉をつなぐ。  三人が窓際の席に落ち着くと、再び激しい砂埃とともに数人の客が雪崩れ込んできた。 「すごい風ねぇ」 「飛ばされるかと思った」  口々にそんな言葉を口にしながら、千春の顔をチラリと見ていく。  それからも、数分おきにドアが開き、風と一緒に常連客が訪れる。顔だけ見て少し笑う人、小さなプレゼントを渡す人、短いねぎらいの言葉をかけてくれる人、目も合わせず何も言わず、いつもの席に向かう人など、ぽつりぽつりと席が埋まってゆく。  昼を回る頃には、ふだんと変わらない数の人々で店はいっぱいになっていた。  ミセス読書と徹夜明けのクラブのママ、一階の不動産屋の女社長も、赤土色に汚れた髪で思い思いの席に座っている。  午後一時近くになって、有栖川が姿を見せた。  最後に会ったのは十日ほど前で、あんなふうに別れた後で、こうしてまた店に来てくれるとは思わなかったので、千春は驚いた。  あの日の非礼をどう詫びればいいのか悩んでいると、何もなかったような態度で有栖川はカウンター席に腰を下ろした。

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