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【9】-1

 ロッカーで着替えて外に出ると、風は嘘のように()んでいた。  茶色く汚れた街が、春の光の下に呆けたように横たわっている。桜の幹の根元に、ハンガーに通されたままの青い洗濯物と銀灰色の自転車カバーが、持ち主のところへ帰る術をなくしてうずくまっていた。  何も考えずに歩いているうちに、自宅のマンションを通り過ぎていた。そのまま隣の駅まで歩き、瀟洒な建物の前で足を止める。  去年の秋から誠司が一人で暮らしているマンションだ。ロンドンから帰国した時に現金で買っていた。少し前までは、何度か千春も遊びに来ていた。母の口から誠司の結婚話を聞いてからは、一度も来ていない。誠司からも来いとは言われなかった。  強化ガラスでできた玄関扉は二重のオートロックで、鍵のない千春には開けることができない。数字の並んだパネルを見下ろし、ぼんやりと立っていた。  誰かが後ろに立った。背の高い人だ。 「何やってんだ?」  聞き慣れた声がする。低くて少し掠れていて、甘い。千春が一番好きな声。 「誠司さん……」  振り向くと、誠司は両手いっぱいに荷物を抱えていた。 「ちょうどよかった。上着のポケットに鍵があるから開けてくれ」  キャメル色のウールコートを目で示されて、千春は言われるまま右のポケットを探った。鍵を取り出しパネルに差し込む。暗証番号を押すと、スモークガラスの扉がなめらかな動きで左右に割れた。 「マジでちょうどいいところに来たな。今から料理を作るから、試食していけ」 「料理……?」  時刻は四時をまわったところだ。本当なら誠司はまだ会社にいるはずで、カジュアルな服装からも、今日が休みなのだとわかる。  千春が知る限り、誠司は働きすぎが心配になるくらい働いてばかりだった。なのに、なぜまた休んでいるのだろう。考えて、千春は途方に暮れた。  理由は一つしかない。 「誰かいるなら、帰る……」 「どこに?」

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