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【9】-3

 有栖川からの申し出は、きっと願ってもないものなのだろう。前向きに考えろと、金井が言うのもよくわかる。  母もきっと安心する。  けれど……。  有栖川は千春を恋人にしたいと言った。『ラ・ボナヴィータ』で働くということは、その気持ちにも応えるということだ。  その二つは別々に考えていいと、有栖川は言うかもしれない。けれど、たとえ有栖川がそう言ってくれたとしても、千春にはきっとそれができない。  自分に必要なものだけ受け取って、もう一方から目を逸らしていられるほど、千春は器用ではなかった。  エビとアボカドを使ったオレンジ風味の地中海風サラダ、たっぷりとバジルを挟んだカプレーゼ、蒸し鶏には柚子胡椒を添え、パスタは何皿かに分けてオリーブオイルと塩だけで仕上げたものと、千春の好きなトマト味をいくつかの小皿に分けて盛り付ける。カレー風味のひじきの煮つけ、ミネストローネ風の具だくさんのスープ、フォカッチャとオーバーナイトフランスパンがオーブンに入れられ……。  次々作られてゆく料理の香りに、いつしか気持ちが吸い寄せられていた。 「ねぇ、何品作るの?」 「何品欲しい?」 「もう十分だよ。どうしてこんなに作るの?」 「だから、試作だ。冷めてもアレだから、そろそろ食うか」  言っている意味がよくわからなかったが、とりあえず「うん」と頷いた。どんなに落ち込んでいる時でも、誠司が作ったものを食べれば元気になれる気がした。 「どうだ?」  「美味しい。このパスタは、何?なんで同じのが五つあるの?」 「オリーブオイルの味を比べる。右から、プーリア産、トスカーナ産、シチリア産、小豆島産、最後はオリジナルブレンドのオイル」  少量のパスタを盛った小皿を、誠司が順番に並べる。小皿の淵に印が付けてあった。 「けっこう風味が違うだろ。パンとフォカッチャもあるから、そっちでも食べてみろ。それで、どのオイルが好きか、後で教えろ」  言われるまま、オイルの香りに注意してじっくりと味わう。確かにそれぞれ特徴があった。

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